第162話 『珍しい客』
ここは、深夜食堂しのぶ。
「こんばんは……」
暖簾が、静かに揺れた。
「いらっしゃいませ」
忍が顔を上げる。
その横で、マサが一瞬だけ目を見開いた。
「……いらっしゃい」
そこに立っていたのは――
昔、マサが料理のいろはを教えた…最初で最後の弟子である…
八恵子だった。
再会
「懐かしいわね、マサさん」
「ほんと。
八恵子、ご無沙汰だ。」
忍が首を傾げる。
「もしかして……
今話題の“おにぎり屋 、ひとすくい”って……」
八恵子は、静かに頷いた。
「そうよ」
「えっ……」
忍が思わず言葉を滑らせる。
「おにぎり屋さんが、おにぎりを……?」
八恵子は、ふっと笑った。
「そうね……
少し、誰かの握ったおにぎりを
食べてみたくなったの」
店の空気が、少しだけやわらいだ。
土鍋の音
「あいよ」
マサは即答した。
「今から土鍋で炊くんで、
少し時間もらいますけど」
「うん。お願い」
火にかけた土鍋から、
やがて、米の甘い匂いが立ち上る。
カウンター越しに、
二人は多くを語らない。
ただ、湯気が静かにのぼる。
握る
炊き上がったご飯をほぐし、
手に塩を当てる。
力を入れすぎず、
空気を含ませるように。
具は、梅と塩鮭。
余計なものは入れない。
皿に置かれた、
湯気を立てるおにぎり。
八恵子はしばらく見つめ、
そっと持ち上げる。
一口。
ゆっくりと、噛む。
目を閉じる。
「……ああ」
それだけで、十分だった。
小さな本音
「毎日、握ってるとね」
八恵子がぽつりと言う。
「“誰かのため”じゃなくて
“数のため”になってくる時があるの」
忍が静かに湯呑みを置く。
「たまには、
握られた側になるのも大事よ」
八恵子は微笑んだ。
「ええ。思い出したわ」
「何をです?」
「料理は、競争じゃなかったってこと」
マサは、少しだけ照れた顔で言う。
「うちは、
腹と心が満ちりゃそれでいい店ですから」
八恵子は、最後の一口を大事に食べた。
土鍋ごはんのおにぎり(基本)
材料
米 … 2合
水 … 適量
塩 … 少々
好みの具(梅・焼き鮭など)
作り方
① 米を研ぎ、30分浸水。
② 土鍋で中火→沸騰後弱火10分。
③ 火を止め10分蒸らす。
④ ほぐしてから握る。
※強く握らない。三回で形を整える程度。
マサの一言
「おにぎりはな、
うまく握るもんじゃねぇ。
“やさしく置く”んだ。」
暖簾がまた揺れた。
「また来るわ」
「いつでもどうぞ」
珍しい客は、
少しだけ軽くなった背中で帰っていった。
深夜食堂しのぶ。
今夜も、誰かの原点を思い出させる場所だった。




