小壺
酢の甕は、揺すると底のほうで水音がするようになっていた。
演習の翌朝から、エルンストは朝のうちに出ていき、昼前に戻ってくると、テントの横に紫裏茸を積んだ。腰のポーチにも背負い袋にも詰めてきた分で、裏の紫が幾重にも重なり、湿った土の匂いが立った。
リディアは焚き火の脇に鍋を三つ並べていた。一つ目で刻んだ茸を酢に漬け、二つ目に濾し布を張って汁を落とす。三つ目には灰を水に溶いて、上澄みの灰汁を溜めてある。濾した汁に灰汁を匙で垂らすと、ひと匙ごとに白い濁りが生まれて、鍋の底へゆっくり降りていった。一つ目の小壺のときは、茸五十個で爪の先ほどの粉しか残らなかった。今度は刻みを細かくして一晩漬けたぶん、底の白が厚い。
「あと何壺できますか」
フェリクスが鍋を覗き込んでいた。
「茸なら、エルンストがいくらでも摘んでくるよ。どうやって見つけているのか不思議なぐらい。足りないのは酢」
リディアは甕を揺すってみせた。
「漬けるのにも使うし、壺から出すときにも溶かすでしょ。灰汁を落としたら、もう酢じゃなくなるの。今のを入れて、三壺。四つ目は無理」
フェリクスは甕を見て、それから鍋の底を見た。
「地上で買えば、酢など二束三文です」
「ここ、地上じゃないもん」
二日目の昼にも、エルンストは茸を空けていった。リディアは刻む手を止めずに、顎で岩のほうを指した。
「残りは裂いて、そこに並べといて。乾かせば、上で酢を買ってからでも抜けるから」
エルンストは黙って茸を裂き、焚き火の煙がかかる岩の上に一枚ずつ並べた。翌朝には岩が足りなくなり、火を囲む石にまで紫の裏が並んだ。
その晩、フェリクスは焚き火の向こうで白軸茸の串を回していた。
「この毒の精練は、どこで覚えたんです」
「なんで」
「同じことのできる者がほかに何人いるかで、値が変わります」
リディアは濾し布の端をつまんで、溜まった滓を火の中に払った。
「魔導院はやらないよ。鍋なんか触ったら手が汚れるって顔する人たちだもん。酢で抜いて、濾して、灰汁を落とすなんて、考えもしない」
「では、どこで」
「工房の……」
リディアは鍋の縁を匙で叩いた。
「ねえ、この白いの、灰汁を入れすぎると余計なものまで一緒に沈むんだよ。知ってた? ちょうどいいところで止めないと、全部やり直し。だから一匙ずつなの」
フェリクスはしばらくリディアの手元を見ていたが、やがて串を火から上げた。
三日目の晩、甕に残った最後の酢を鍋に空けた。底に溜まった白を布で絞り、焚き火から離して乾かすと、指で潰せるほどの粉になった。リディアは前の二晩に乾かした分と一つずつ、三つの小壺に詰めて、栓の周りを蝋で固めた。それから荷の底から札を三枚出し、「開けるな」と書いて紐で首に下げた。
「札は外せ」
エルンストが手を出していた。
「えー。間違えて舐めても知らないよ」
「お主の容器は、どれも『開けるな』と書いてあるじゃろ」
リディアは少し考えてから札を引きちぎった。壺の尻に爪で小さく三本の筋を刻んで、エルンストに渡した。エルンストは三つの壺を布でくるみ、背負い袋の一番奥へ押し込んだ。
空になった甕を逆さにして、リディアは鼻を近づけた。まだ鼻の奥が酸っぱい。地上に戻ったら、まず酢を買おう。
◇
この三日、何度か戦闘を繰り返すうちに、フェリクスの盾の扱いは上手くなり、ゴブリンも一突きで仕留めるようになっていた。練度が充分なのか、それとも一層でやれることが減ったのか、エルンストは二層へ行くことを承諾し、一同は回廊へと向かった。骨の散らばる窪地の土には、下へ向かう足跡が何筋も重なっていた。
回廊の奥から、足音が上がってきた。エルンストが背の弓に手を回した。回廊の暗がりから出てきたのは、背負い袋一つの若い探索者だった。胸に提げた革の書状入れに、黒い牡鹿の紋が押してある。男はフェリクスとパーティメンバーをさっと見定めた。
「下は、どうです」
若い探索者は足を止めずに水筒をあおり、白い粉のこびりついた袖で口を拭った。
「知らねえのか。勇者さまは全滅だ。二層の底の広間で、七人ともだ」
宝物庫の武具を下賜された七人だった。
「広間には、何が」
「ゴーレムだよ」探索者はもう窪地を横切っていた。「勇者さまの次に着いた隊が、ボス部屋の手前で斥候を引きずり出して、それから覗いた。あとは床に転がったままだ。最初の探索で五層の回廊まで行くことに銀貨5枚張ってたんだがな」
「広間の手前には、今、何組いますか」
探索者は指を折りかけて、やめた。
「四組だったか。Sランクのパーティが二層ぽっちで全滅したってんで、気味が悪くて誰も倒したがらねぇ、部屋にも入りたがらねぇのさ。もう十日だ。おかげで、余った堅パンが三倍で売れた」
書状入れを胸に押さえて、探索者は茸の森へ上っていった。
三倍か。四組が三倍の堅パンをかじりながら、誰かが先に入るのを待っている。こちらには、焼けば食える白軸茸がある。
エルンストはエレナの足元を見た。ゴブリンが縄の先にしゃがみ込み、回廊の暗がりへ鼻先を向けていた。
「あれも連れていく」
エレナが縄を手首にひと巻きして、立ち上がった。




