腕試し
入口から一時間も歩かないうちに、茸の傘が頭の上を塞いだ。
荷車ほどもある傘が重なり合い、ランタンの明かりは上へ抜けなかった。軸のあいだの土には白い菌糸が網のように這い、傘の裏のひだと同じく青白く光っていた。足元の石までは見えない。菌糸は踏むたびに靴の下で湿った音を立てた。息を吸うと、濡れた土とその場にそぐわない熟れすぎた果物のような甘い匂いが喉に残った。
フェリクスは歩きながら、ギルドの酒場で聞いた話をもう一度繰り返した。
「有力候補のSランクパーティは、層主を三時間で倒したそうです。地上に戻った探索者がそう話していました。一層はゴブリンが多いだけで、大したことはないと」
層主は倒しても、いずれまた育つ。育ち直すまでのあいだ、回廊は労せず通れる。そのうちに抜ければ、一層で群れを相手にするはずだった日数を、そのまま下に回せる。下の層ほど素材の値は上がる。
「今なら層と層をつなぐ回廊を抜けられます。次が育つ前に」
返事はなかった。先頭のエルンストは足を止め、しゃがみ込んで足元の菌糸にランタンを寄せた。白い網が、子どもの足ほどの形にいくつも潰れていた。指の跡は四本で、潰れた所にはまだ光が戻らず、黒く抜けている。エルンストは立って上を見た。
そこだけ傘が途切れていて、ランタンを掲げると岩の天井が見えた。茸の生えない空き地で、真ん中がわずかに盛り上がっている。片側の岩壁では、割れ目から滲んだ水が光る苔を細く伝って落ちる。道は来た一本のほかに、向かいの縁にもう一本口を開けていて、足跡はそちらへ続いていた。
エルンストは空き地の縁を一回りし、向かいの道の奥を覗き、真ん中の盛り上がりからもう一度まわりを見た。戻ってきて、バッグを岩壁の際に下ろした。
「ここを一旦、拠点にする」
「回廊まで、まだ半日はあります」
「まだ腕を見とらん」
それだけ言って、エルンストはバッグの口紐をほどき始めた。
フェリクスは後ろの二人を見た。リディアはもう岩壁の苔を爪で剥がしてランタンにかざしていた。エレナは鉄の頭の付いた杖で垂れ下がった傘の縁を押し上げ、裏のひだを覗き込んでいた。
フェリクスは自分のバッグを、エルンストの隣に下ろした。進まないのも、撤退のうちか。
◇
テントの杭を打ち終えると、エルンストはバッグの口を縛り直し、ナイフの刃を親指の腹で撫でた。
「一匹ずつ、ゴブリンをここへ追い込む、半刻ほど待っておれ」
「ここまで、一匹も見ていませんが」
「一人ずつ、腕を見せてもらう」
エルンストは反論を聞かなかったかのように道の奥の暗がりへ入っていった。
フェリクスは空き地を見回した。エレナはテントの前に布を広げ、まな板、包丁と、水を張った小鍋を順に並べ、その後ろに膝をそろえて座った。リディアは腰の小袋の口を開けては閉めている。腕試しは、自分とリディアの二人か。
しばらくして、道の奥で鈍い音がした。甲高い鳴き声が続き、道からゴブリンが一匹転がり出てきた。背丈は子どもほどで、骨の棍棒を握り、片耳が欠けている。後ろばかり気にして走ってきて、空き地の真ん中でフェリクスと鉢合わせた。
フェリクスは半歩横へずれ、杭に掛けたランタンを背にした。刺剣を抜き、右足を前に、切っ先を喉の高さに。兄たちの稽古の相手をさせられた屋敷の中庭で、体にしみ込んだ構えだった。
間合いを取り直すかと思ったが、ゴブリンは下がらなかった。棍棒を振り上げて跳び込んでくる。その腕が上がりきる前に、踏み込んで喉を突いた。切っ先は濡れた革に当たったように、爪の先ほど入って止まった。血が一つ玉になって浮いただけで、ゴブリンは喉に刃を受けたまま棍棒を振り下ろした。引いて躱し、また突いた。胸。同じ浅さだった。三度目は目を狙って瞼の上を裂き、袖で生地の裂ける音がした。棍棒がかすめていた。
四度目は一度目と同じ喉の傷に入った。今度は切っ先が沈み、鍔の手前まで埋まった。刺剣を抜くと、ゴブリンは前のめりに倒れて菌糸の上で一度痙攣した。
フェリクスは息を整えながら、刃の血を外套の裾で拭った。手首が熱を持っていた。一突きで片づくつもりでいた。一匹に四突き。酒場の話では、回廊の手前はゴブリンで埋まっていたという。それを、Sランクのパーティは三時間で抜けた。
道にエルンストが立っていた。骸を見下ろし、何も言わずにまた暗がりへ戻った。
「今の、最初は皮しか通ってなかったよね」リディアが骸の横にしゃがみ込み、喉の傷を指で広げた。「四回目って一回目と同じとこ? わざと? 力は同じだった? じゃあ通らなかったのは向こうの……」
鳴き声が近づいてきて、リディアは立ち上がった。
二匹目は片足を引きずっていた。リディアは空き地の真ん中まで出ていくと、親指を立て、人差し指をゴブリンの顔へまっすぐ向けて、短く何か唱えた。指先に拳ほどの火が熾り、そのまま飛んで命中した。ゴブリンは甲高く鳴いて顔を掻きむしり、焦げた毛の匂いが広がった。倒れはしなかった。顔から細く煙を上げたまま、引きずる足でリディアのほうへ向かってくる。
道の入口に戻ってきていたエルンストが、長い息を吐いた。
リディアの頬がふくらんだ。腰の小袋から粉をひとつかみ取ると、両手で抑え込み、再度短く詠唱をした。手を開くと、掌に粉は残っていなかった。親指を立て、人差し指をもう一度ゴブリンの顔へ向けた。指先に小石ほどの白い光が灯ったと思うと、もうそこにはなかった。湿った物の弾ける音がして、ゴブリンが仰向けに倒れた。顔から湯気が上がり、焦げた肉の匂いが広がった。熱は空き地の縁まで届き、縁に張り出した傘が一枚、縮れて反り返った。
「これで満足?」
エルンストはそこに立ち尽くしていた。
フェリクスも目を疑った。あの粉がひとつまみいくらするのか気になったが、恐ろしかったので聞かないことにした。
◇
エルンストは背のクロスボウを下ろしてバッグに立てかけ、その脇に腰を下ろした。ナイフを抜いて砥石に当て始めた。
フェリクスはテントの残りの紐を締めながら、エルンストの手元を見た。
「一匹に四突きでした……」
「上で聞いとるじゃろうが」刃が砥石の上を一往復した。「エーテルじゃ。ここの連中は、ここのエーテルを吸って育っとる。降りてきたばかりの者の刃は、なじまん」
「なじむまで潜ればいいの?」焦げた骸の脇にしゃがみ込んだまま、リディアが顔を上げた。「何日? 一層で足りる? 下に行くほど濃いんだよね、だったら」
「探索者はレベルと呼んどる」
エルンストはナイフの刃を返し、フェリクスの腰の刺剣に目をやった。
「下の素材で打った得物があれば、話は別じゃ」
エルンストはそれ以上言わず、また刃を砥石に滑らせた。自分が使った刺剣は、餞別として父から渡された地上の刺剣だった。Sランクのパーティなら、得物も下の物だったのだろう。回廊の先の次の層は、ここよりエーテルが濃い。急いで抜けた先で同じ魔物に遭ったとして、一匹に十突きになるのだろうか。
砥石の音だけがしばらく続いた。
「次は、私ですね」
エレナが鍋の前から立った。そういえば、さっきから横目に何かを刻んでいるのが見えていた。ひと段落したのか、火にかけた小鍋がぐつぐつと煮立っている。エレナは空き地の真ん中まで出て、鉄の頭の付いた杖を両手で持ち直した。祭具だと思っていた。
砥石の音が止まった。
「え、エレナが? それで? 殴るの?」
フェリクスも呆気にとられた。治癒の術を使える者が前に出て倒れれば、素人が考えても困ったことになる。ここは経験のあるエルンストの判断を仰ごうと彼のほうを見たが、だめだった。エルンストも、砥石に刃を当てたまま固まっている。
「念のため伺いますが、前に出るおつもりですか。傷を塞げる者は、ほかにいません」
「それは重々承知しているのですが、前衛が足りてませんし。酒場で集まったときから、てっきり私も前衛だと思っていました」
取り決めはなかったが、自明だと思っていた。返す言葉を探しているうちに、エレナが続けた。
「あの程度であれば問題ありません。それに、腕試しですよね?」
「腕を折られても、ですか」
「それは問題ありません」
エルンストはしばらくエレナの手首と肩のあたりを眺めていたが、ナイフを鞘に納めると、立ち上がって暗がりへ入っていった。
三匹目は、それまでの二匹より頭一つ大きかった。道の入口から飛び出してきたそのすぐ後ろに、エルンストが立ち止まって道を塞いだ。
エレナは避けなかった。棍棒が振り下ろされたとき、左手はもう柄の上にあった。ゴブリンの拳のすぐ上を掴むと、棍棒はそこで止まった。骨の鳴る鈍い音が、離れて立つフェリクスの耳まで届いた。フェリクスは思わず一歩出た。エレナは掴んだ手を緩めもせず、右手一本で杖...ではなくメイスを振った。鉄の頭が脇腹を打ち、ゴブリンがよろめいた。それだけだった。エレナは同じところをもう一度打った。もう一度。ゴブリンが棍棒をもぎ取ろうと暴れ、爪が手の甲を掻いても、同じ脇腹だけを打ち続けた。当たるたびに、濡れた布を叩くような音がした。リディアの口が開いたままになっていた。道の入口のエルンストは、ナイフを抜いたまま動かなかった。
何度目かで音が変わった。乾いた枝を踏み折るような音がして、ゴブリンが体を折って崩れた。エレナは棍棒を握った肘を砕いてから、メイスを下ろした。ゴブリンは菌糸の上で脇腹を抱えて鳴いていたが、起き上がれなかった。
エレナは左手を持ち上げ、指を一本ずつ曲げては伸ばした。小指まで終えると、手の甲の血を袖で拭った。
リディアが駆け寄ってきて、エレナの手を覗き込んだ。
「今の手、折れてたよね? 音がした。ねえ、何したの。いつ治したの、殴りながら?」
「神の御業です♪」
メイスの握りには血がこびりついていた。メイスを持つ手には、傷がなかった。
エレナはフェリクスのほうを向いた。
「これは生かしておいても? 御夕飯の味見番とかに使えそうなのですが……」




