特使
外套を洗い直すのは、これで三度目だった。
宿の裏の井戸端で絞った外套に鼻を寄せると、まだ沼の臭いが残っていた。水を替えようと桶を傾けたところで、食堂の裏口に黒い上着の男が立っているのに気づいた。白い手袋の手を腹の前で重ね、麦酒の染みた敷居を踏まないように爪先をそろえている。ハーゲン家の執事のアルフレッドだった。
「旦那様がお呼びです」
アルフレッドは絞りかけの外套に目を落とし、手袋の指で鼻の下を一度押さえた。
「お召し替えは、なさらずとも結構とのことです」
門の脇の下男は、フェリクスの顔を見るなり表の扉を開けた。客間の前を通っても、長兄の笑い声は聞こえなかった。
父は書類を脇の棚へ移していた。机の上は片づいていて、真ん中に封の切れた書状が一通だけ置いてあった。割れた封蝋は深い紅で、王家の色とは違った。
「帝国から王家に申し入れがあった。中州のダンジョンのことで話し合いたいそうだ」
父は書状を指で押して、こちらへ向けた。
「向こうの指名で追加の特使としておまえが呼ばれた。随員に、おまえの隊の三人も名が挙がっている」
流れるような字の並びの中に、自分の名があった。
「私を、ですか」
「ほかにフェリクス・ハーゲンがいるなら、教えてくれ。いったいどうやって帝国に取り入ったのやら」
皇女の礼だろう、とは思った。三層の層主はテオドラの隊の名で帳簿に載り、四人の名を訊く者はいなかったが、テオドラは四人の姓まで知っている。何をしたのかと訊かれるものと思って、言い方を考えていた。父は訊かなかった。机に散った封蝋のかけらを、爪の先で端へ寄せていた。
「おまえはいつもそうだ、どこか抜けていると思えば、抜け目がない。まぁ良い、取り敢えず行ってこい。行っているあいだは、ダンジョンの務めは免じられる。探索も、魔物の間引きもだ」
父は引き出しから小切手の綴りを出した。
「手付だ。向こうで見聞きしたことは、何でもいいから持って帰れ。物によっては、別に払う」
「何を見てくればよいのですか」
「何でもだ。出てくる皿の数でも、廊下に立つ衛兵の数でもいい」
ペンが紙の上を走り、吸い取り紙が当てられた。机の端へ滑ってきた小切手の額面は、小壺一つ分にも届かなかった。皿の数で父が何を買うつもりなのかはわからない。帝国の宮廷に出入りする商人にでも情報を売るのだろうか。
小切手を外套の内にしまおうとして手が空を探り、井戸端に掛けてきたのを思い出した。上着の胸の物入れに折って入れた。
一礼して扉の把手に手を掛けたところで、背中から声がかかった。
「フェリクス」
振り返ると、父は書状を見ていた。
「気をつけろ」
父はペンを取らず、紅いかけらをもう一度指で寄せた。
◇
リディアの工房の戸は叩く前から内の笑い声が漏れていた。
押すと開いた。作業台の前の床に古い敷布が広げてあり、リディア、エレナ、見知らぬ小さな女の子と、ゴーレムが一体、輪になって座っていた。
二層で生け捕りにした小型のゴーレムだった。もいだはずの腕と脚が付いていて、そこだけが胴の結晶と違う灰色のざらついた石でできている。ガーゴイルの石だ。背負って運んだ重さは、肩がまだ覚えている。背骨に沿って浅い溝が一筋彫られ、指の先ほどの透きとおった欠片が隙間なく並んでいた。
ゴーレムが胴を回してエレナのほうを向き、石の手のひらを差し出した。木の椀が載っている。エレナは空の小鍋をスプーンでかき混ぜ、椀の上で傾けた。
「今日のスープです」
石の指が閉じて椀をつかみ、胴が女の子のほうへ回った。両手で椀を受け取った女の子は、飲むふりをしてから手のひらに戻した。指が開き、胴がまたエレナのほうへ回った。エレナはもう一度小鍋をかき混ぜた。
壁際の木箱にはエルンストが座っていた。膝の上で小さな木の杯を両手に包んでいたが、フェリクスと目が合うと杯を脇に置き、矢柄の束を引き寄せて一本ずつ向きを揃え始めた。もともと揃っている束だった。女の子はときどき振り返っては、エルンストの膝のほうへ手を伸ばした。誰の子かは、それでわかった。
「あ、来た。見て見て、すごいでしょ」
リディアが敷布の上で膝立ちになった。
「背中の欠片、端から順に読んでるの。回る、つかむ、回る、放す、で最後まで行ったら頭に戻る。欠片はもいだほうの腕の結晶を割ったやつで、刻む印で中身が変わるの。止める印とか、他の命令セットがまだわからなかったりするけど、簡単なことはできるようになった。うまくフォトニック結晶を作れば小型化できるかもだけど、とりあえず最初はリバースエンジニアリングから」
何を言っているのかわからないが、とりあえずそこそこ自在に動かせるようになった結果、子供と遊ぶおもちゃになったようだ。
エレナはスプーンを小鍋に戻した。
ゴーレムの手の中で、椀がかすかに鳴った。
フェリクスは上着の上から、胸の物入れの小切手を押さえた。
「帝国から招待が来ました。帝都へ、四人ともです」
リディアが「帝都」と繰り返して立ち上がり、敷布の端を踏んだ。小鍋がひっくり返ったが、零れる物はなかった。ゴーレムは胴を回し、リディアのいなくなった場所へ椀を差し出した。
エルンストの手が矢柄の上で止まった。
「……いつじゃ」
「おじいちゃん、どこか行くの」
女の子がエルンストの袖を引いた。エルンストは矢柄を置き、袖をつかむ小さな手に自分の手を重ねた。
エレナが女の子の脇から手を伸ばして、ゴーレムの背の溝から欠片を一つ抜き、膝の脇の小皿から別の一つを取って差し込んだ。ゴーレムは胴を半分だけ回し、戸口に立ったままのフェリクスのほうへ手のひらを向けた。
フェリクスは椀を受け取った。中は空だったが、礼を言った。
◇
帝国の馬車は王都の北門の外で待っていた。扉に帝室の紋が白く抜いてあり、御者台ではボルクが手綱を膝に載せている。車輪の脇に立っていたのは、鎖帷子ではなく紺の旅装のテオドラだった。
「迎えに来た、姉上の言いつけだ」
「お待たせしましたか」
「いや、今来たばかりだ」
来たばかりの割に、馬はもう足元の草を食べ尽くしていた。
後ろに王家の馬車が一台付いている。乗っているのは宰相府の外交官で、白髪を後ろへ撫でつけ、膝に革の書類箱を載せていた。中州のダンジョンの話し合いはこの男がする。外交官は四人に一礼したきり、王家の馬車の扉を閉めた。
リディアは乗るなり座席の革を指で押して詰め物は羊の毛だと言い、窓の硝子を爪で弾き、車軸を見ようと扉から身を乗り出したところでエレナに襟をつかまれた。エルンストは隅に座って、孫娘を預けてきた隣の家のおかみの話を一度だけした。それきり窓の外を見ていた。
川は三日目に渡った。渡し船の板の上で、テオドラは手すりに肘をついて水を見ていた。
「謁見の前に伺っておきたいのですが、姉君はどのようなお方ですか」
「そう身構えることはない、姉上は優しい人だ」
フェリクスが返事を探しているうちに、テオドラは水を見たまま付け足した。
「……ただ、私は昔から出来の良い姉と比べられてきた。武芸に励んだのはそれだけなら姉に勝てそうだったからというのもある気がする。子供のころの話だから本当にそうだったのかは覚えていないが……、べ、別に構って欲しいとか、慰めて欲しいとかそういうわけではないぞ」
「照れていらっしゃるんですか、緊張していらっしゃるんですか♪」
「どちらでもない」
テオドラは手すりから肘を下ろした。袖に、濡れた木の跡が二本付いていた。




