帝都
五日目の昼に帝都の城壁が見えた。灰色の石を積んだ壁で、王都の城壁より一段高く、上を歩く兵の槍の穂が日に光っていた。門をくぐると、パンを焼く匂いがして、石畳の馬の糞を箒で掃く音が続く。王都より道が広く、溝には蓋がしてあった。
外交官は書類箱を抱えて謁見の間へ連れていかれた。四人が通されたのは、奥の小さな間だった。窓が一つあり、向かいの屋根の上で一度だけ何かが光った。白い布を掛けた卓に皿が並んでいた。フェリクスは椅子に着く前に皿を数えた、六枚だった。
女帝は先に座っていた。閉じた扇を卓に置き、四人が礼を終えるのを待たずに、手のひらで椅子を示した。
フェリクスは自分の椅子を卓の角のほうへ半歩ずらし、皿をそれに寄せてから腰を下ろした。
「よく来た。妹が世話になった」
テオドラが女帝の隣に座り、卓の下で膝の上の手を組み直した。
給仕が焼いた鳥を卓の脇で切り分けて皿に配り、足音も立てずに下がった。エルンストはもう脚の骨を手でつかんでいた。
「竜の話は妹の文で読んだ。裏まで詰めて書いてあった」
テオドラの肩がわずかに上がった。
「首を落としたのは妹だそうだな」
「天井の岩を落としたのはリディアで、首を落としたのは殿下です。我々は泥に伏せておりました」
「泥に伏せていた者に、薬をもらったとも書いてあったが」
女帝は扇の先で、自分の皿を少し脇へ寄せた。
「多忙故、手短に済まそう。妹の命の礼に、一人に一つずつ、願いを聞こう」
女帝の目がまずエルンストで止まった。エルンストは膝に手を置いたまま、しばらく卓の布の織り目を見ていた。
「孫が一人、おるんじゃが」
給仕が杯に水を注ぐ音がした。
「ワシに何かあったら、あの子が大人になるまで頼みたい。それと、学校に入れてやってほしい」
「後見は引き受けよう。学舎も帝都で探させる」
女帝は扇を取って、先でエルンストの前の卓を軽く叩いた。
「自分のことは、よいのか」
エルンストは脚の骨を皿に置いた。
「……なら、良いブランデーを一本」
女帝の扇が口元で止まった。
「蔵の一番古いのを出させよう」
エルンストは頭を下げ、顔を上げたときにはもう杯に手を伸ばしていた。
女帝の目がエレナに移った。
「私は、特に」
「何かあるだろう」
「では、恵まれない子どもたちへの施しを」
「神殿に寄進させようか」
「神殿を通すと、子どもに届くまでに減りますので」
テオドラが杯を口元に寄せた。飲んではいなかった。
「ベネディクトの言う通り清廉な方のようだ、よかろう」
リディアはもう椅子の上で腰を浮かせていた。
「図書館! 帝都の書庫って、魔導院にない写本があるんでしょ。北の鉱山の古い記録とか、錬金術の焚かれずに残ったのとか。閲覧の許しってもらえる? 全部の棚? 鍵のかかってるところも?」
「全部を許そう、リディア・フォン・アイゼン・シルト・ハンマーベルク」
リディアの指が卓の布の端をつまんだまま止まった。
「……ありがとうございます」
「さて、フェリクス・ハーゲン」
願いならいくつもあった。中州の帝国の天幕で商売をする許し。父の小切手に頼らずに済むだけの金。何なら帝国の爵位や領地を貰えるかもしれない。どれを先に言うか決めかねているうちに、女帝が扇を閉じた。
「そなたの父上からは、先日、贈り物をいただいた」
父が帝国に何かを贈るとは、聞いていなかった。
「あいにく、受け取れなかった。贈り物というのは、受け取れなかったときのほうが、贈り主の心がよくわかる」
「そなたの願いは、父上への返礼に使わせてもらう。伝えてくれ。昨今の天気が続けばバーデン領で山火事が出るやもしれん。この季節は西から強い風が吹く。火の粉が飛んでこぬよう、戸締まりに気をつけよ、と」
バーデン領は王国の西の端の領地だった。行ったことはなく、領主の顔も知らない。
「……山火事、ですか」
「そのまま伝えればよい」
ランプの精の願いは三つまでと聞いていたが、本当だとは思わなかった。
◇
その夜、テオドラは久しぶりに姉と談笑していた。暖炉には薪が足され、卓には昼の間の葡萄酒の残りが運ばれていた。姉は靴を脱いで長椅子に足を上げ、扇を膝に伏せていた。
「そういえば、おまえには言っていなかったな」
姉は杯を取って、中身を揺らした。
「二層の層主を倒した隊を探させていた。広間の床は一面の石灰の粉で、燃え残った盾が一つ転がっていたそうだ。マイコニドの頭を、鎧虫の殻で裏打ちした盾だ」
テオドラの杯が唇の手前で止まった。
中州の岩の脇で、フェリクスの盾を腕に通したことがある。表の枡を拳で叩くと、乾いた木のような音がした。茸の傘を盾にした者など初めて見た、と言ったのは自分だった。
「Sランクパーティの七人を一瞬で消した相手を、茸の盾と煙幕で倒した連中がいる」
姉の肩が揺れ始めた。扇を口に当てたが、笑いは扇の縁から漏れた。
「今でも、思い出すたびに笑ってしまう」
「その者たちは、見つかったのですか」
「いや、王宮の密偵によると王国も探しているようだが見つかっていないらしい。おまえは中州で見なかったか、それらしい連中を」
テオドラは杯を卓に戻した。
「マイコニドなら一層にいくらでもおります、姉上」
「そうか」
姉は目尻を指で拭い、杯の残りを空けた。空の杯を卓に戻しても、指は脚から離れなかった。
「テオドラ」
「はい」
「あまり危ないことはしないでくれ。あのような思いは、一度でたくさんだ」
姉の指は、まだ杯の脚にあった。
「……はい」
姉に話せば取られてしまうかもしれない。あれだけは、誰にも渡したくなかった。他でもない、私のものだ。
薪がはぜて、火の粉が一つ炉の外へ跳んだ。テオドラは靴の先でそれを踏んだ。
◇
帰りの馬車にテオドラは乗らなかった。姉にしばらく休暇を取るように勧められたらしく、帝都の城門の内で見送られた。
王都の北門の外で馬車を下りると、門の脇にアルフレッドが立っていた。白い手袋の手を腹の前で重ねたまま、フェリクスに一礼した。
「旦那様がお待ちです」
帝国の馬車は向きを変えて北へ戻っていった。リディアは伸びをしながら工房の方角へ歩き出し、エルンストは隣の家のおかみのところへ行くと言って、もう背を向けていた。エレナは振り返ってフェリクスを見た。
「お帰りは、遅くなりそうですね」
フェリクスは荷をエレナに預けて、アルフレッドのあとについた。
父の書斎の机には、書類が戻っていた。父は書きかけの一枚から顔を上げなかった。
「何か情報はあるのか」
「皿は六枚でした。廊下の衛兵は、途中で数え損ねました」
ペンが紙の上を走り続けた。
「……本当にそんなものを数えてきたのか」
「何でもいいとおっしゃいましたので」
そう言われても、変わった所といえば、窓の外から射手に狙われていたことと、給仕が手練れだったことぐらいだ。警備としては順当だと思うが、父が知りたいことではないだろう。
「最初に報告する情報が、それか……」
父はため息をつき、ペン先をインク壺に浸し直した。
「それから、女帝から父上に言伝を預かりました。先日の贈り物は、受け取れなかったと」
ペンが止まった。
「父上は、女帝に何を贈られたのですか」
「知りたいか」
「はい」
「本当に知りたいか」
父はまだ顔を上げなかった。フェリクスは唾を呑んだ。
「……お答えいただけるなら」
「少し前に女帝に毒を盛らせた、しくじったがな」
父の声は、皿の数を聞いたときと同じ調子だった。フェリクスは机の端に手をついた。指の下で、吸い取り紙がずれた。父が女帝を暗殺しようとして失敗した事など、知りたくはなかった。
ペン先は紙に付いたままだった。
「言伝には、続きがあるのだろう」
父の言葉で現実に戻った。
「昨今の天気が続けばバーデン領で山火事が出るやもしれん、と。この季節は西から強い風が吹く。火の粉が飛んでこぬよう、戸締まりに気をつけよ、と」
ペン先のまわりで、インクの滲みが丸く広がっていった。父はそれを見ていなかった。
「アルフレッド」
声は大きくなかったが、扉はすぐに開いた。父は立ち上がり、椅子の背の上着を取って袖を通しながら扉へ向かった。フェリクスの脇を通るとき、こちらを見なかった。廊下を遠ざかる足音が二つ、階段を下りていった。
書斎にはフェリクスだけが残った。机の上で、インクの染みが書きかけの行を半分呑んでいた。フェリクスは吸い取り紙を取って、染みの上から押さえた。指の下で、インクはまだ広がっていた。
一層の窪地で、肩に矢を立てたゴブリンが這っていたのを思い出した。脚から言うことを聞かなくなり、腕だけで地面を掻いて、そのうちに腕も止まった。帝都の奥の間では、窓の向かいの屋根が一度だけ光った。賽の目が悪ければ自分もああなっていたのだろうか。何かを間違えた気がしたが、どこで失敗したかわからなかった。人の情がないのは自分なのかもしれない。




