天井
天井の泥の滴は、昨日と同じ所に落ちていた。
ランタンを掲げると、黒い筋は大聖堂の天井ほどの高さを斜めに走っている。筋に縁どられた塊は荷車を三台並べたほどの大きさで、その下の泥には、滴と一緒に落ちてきたらしい小石がいくつも沈んでいた。
リディアは落ちてきた滴を手袋で受けて、指の腹で潰し、覆面の布越しに嗅いだ。
「水が抜けてくるってことは、亀裂が入ってるんだろうね」
割れ目は奥へ向かって続き、明かりの届かない暗がりに消えていた。エルンストはその先をしばらく目で追ってから、手前の塊を顎で示した。
エレナが弦を引き上げ、粉の袋を括った太矢を載せてエルンストに渡した。エルンストはそれを割れ目へ射込み、エレナが張り直したもう一本も続けて射た。袋の破れる鈍い音がして、少しして細かい粉が覆面に降ってきた。
リディアは細い縄の端から粉を揉み込み、肘と手のあいだに巻き取って輪にしていった。輪が増えるたびに袋が萎み、口紐を二重に巻けるほどになったところで、粉が尽きた。リディアは輪を足元の岩に下ろした。
エレナが太矢の後ろに縄の端を結び、鐙に爪先を入れて弦を引き上げて、エルンストに渡した。
太矢は輪から縄を引き出しながら上がっていき、割れ目に刺さった。遅れて、泥の粒がぱらぱらと葦を叩いた。リディアは垂れた縄の端をつかみ、斜めに張りながら、塊の縁から十歩ほど離れた所まで下がった。
フェリクスは盾を左腕に通して、リディアの横に立った。茸の傘を詰めた盾で岩の塊が受けられるわけではない。それでも、跳ねてくる石くらいは止められるだろう。
エルンストはクロスボウをエレナに返し、来た道の側の岩に片膝をついて、短弓を膝に載せた。
エレナは返されたクロスボウを背に回し、リディアのすぐ後ろに立った。
テオドラの隊が発つ前に、エルンストは弓を握った手を頭の上へ上げ、来た道のほうへ一度振ってみせた。テオドラが頷いた。
五人は葦を分けて奥へ進んでいった。ボルクの大盾が先に立ち、テオドラがその陰を歩き、少し離れて夫婦と神官が続いた。ランタンの明かりは葦のあいだで揺れながら小さくなり、やがて見えなくなった。
◇
葦の向こうが赤く染まり、少しして、もう一度光った。夫婦の火炎魔術だろうか。
三度目の光のあと、足の裏に重い音が伝わってきた。泥が押しのけられる音だった。
羽音のほうが先に来た。
夫婦が葦を蹴散らして駆け戻り、割れ目の下を抜けてエルンストの岩の陰へ回った。その後ろから大盾が後ずさりで現れ、ボルクが盾を構えたまま一歩ずつ泥を踏むその横を、テオドラが長剣を抜いて退いてくる。神官のベネディクトは杖を握って、二人から付かず離れず下がってきた。
二人の後ろの闇が、山の形に盛り上がった。
首が先に出てきた。垂れた皮のあいだから骨の白が覗き、蚊の群れが黒い靄になってそのまわりを巻いていた。腐臭が覆面の布を抜けて喉の奥まで来た。一歩ごとに皮が剥がれて泥に落ち、別の所でまた寄り合って塞がった。
動きは緩い。テオドラの言ったとおりだった。だが一歩が大きい。
ボルクが割れ目の下を抜け、テオドラも続いた。竜の首が、天井の岩の射程に入った。
リディアの唇が動きかけた。
「まだです」
首だけでは足りない、胴が要る。
ボルクの足が泥に取られて大盾が傾き、片膝が沈んだところへ、竜の首がゆっくりと下りていった。
テオドラは数歩先にいた。振り返り、戻った。
長剣が首の付け根に叩きつけられた。刃は皮に食い込んだところで止まったが、首がわずかに逸れた。テオドラはボルクの帯をつかんで引き起こし、二人で泥を蹴った。
竜の胴が、天井の岩の射程に入った。
「今です」
リディアが縄を握って唱えた。穴の縁を崩したときより、声はずっと長かった。
縄が震えて、割れ目から泥が噴き出した。葦の上に茶色い雨が降り、砂利がそれに続いて、岩肌を叩きながら落ちてきた。
それきり、何も落ちてこなくなった。粉が足りなかったのか、割れ目の奥はもう岩なのか。
リディアの膝が折れかけて、エレナが後ろから脇を支えた。
竜の首が持ち上がり、こちらを向いた。
岩陰でエルンストが立ち上がり、弓を握った手が上がりかけるのが見えた。
天井の奥で、岩の擦れる低い音がした。
エレナがリディアを抱え上げて竜とは反対のほうへ走り、リディアの手から縄が抜けた。フェリクスは盾を頭の上にかざして、二人の後ろについた。
地響きと一緒に足元の泥が跳ね上がり、膝から下を持っていかれた。吹きつけた風に、覆面が顔に貼りついた。前でエレナがリディアを抱えたまま泥に倒れ込み、フェリクスは盾を背にして二人の上に伏せた。その盾の枡を泥と砂利が叩いた。
顔を上げた。岩は竜の胴にめり込んでいた、が、それだけではやはり足りないか。
首と、その先の頭だけが岩の縁から出て、泥の上でのたうった。首が振られた。泥を掻き分けてくる頭の、半ば開いた顎から垂れた皮が揺れ、蚊の靄を引きずって近づいてくる、フェリクスは膝をついたまま盾を立てて肩を当て、盾の裏に額を寄せた。重いものが盾の表を擦っていった。腕の骨まで痺れた。
首はもう一度振られたが、今度は届かなかった。岩の下で、潰れた肉が寄り合おうとしては、また崩れていた。振られるたびに首は高く上がり、頭が葦の上で揺れた。
「ボルクッ!」
テオドラの掛け声とともにボルクが首の正面へ走り込み、大盾を斜めに倒して泥に片膝をついた。テオドラがその後ろから駆けてきて、盾の縁に足を掛けた。ボルクが唸って盾を押し上げた。ボルクの声を聞いたのは、初めてだった。
盾を蹴ったテオドラの体が葦の上へ浮いた。宙で腰をひねると鎖帷子が鳴り、長剣が体ごと一回りした。振り上がった首の付け根の、皮が剥がれて骨の白が覗いている所を、回転切りで刃が横に抜けていった。
音は、思っていたより軽かった。
頭が泥に落ちて跳ね、切り口から黒いものが噴いた。テオドラは泥の中へ膝から降りて、すぐに立った。岩の縁から出た首の残りが二度ほど泥を掃いて、止まった。
蚊の群れが竜を離れ、葦の上でほどけて、暗がりへ散っていった。
リディアが泥の中から起き上がり、岩の縁へ這っていって、鱗の残った皮を爪で引っぱった。エレナはフェリクスの盾の腕を取り、肘から指先まで順に押していった。
「大丈夫ですね」
エレナの革袋には、まだ粉が残っているはずだった。明日から、あれを金貨1枚で買う者はいるのだろうか?
ボルクが盾を泥から引き抜いた。テオドラは竜の頭の脇で、泥に突き立てた長剣の柄に両手を重ね、もたれかかっていた。肩で息をしている。
フェリクスは泥を踏んでそちらへ行き、手を差し出した。
「テオドラ殿、立てますか? 見事な剣技でした」
テオドラは顔を上げて、その手を掴んだ。籠手の指が、思っていたより強く食い込んだ。
「テオドラと呼んでくれ」
清々しい笑顔だった。




