青い粉
治療をしていたあいだにも、広間の手前には何組か隊が来た。どの隊も、三層から戻ってくる者の話を聞こうと来たが、回廊から出てきたのが線の向こうの五人だけだったのと、詳細な状況を聞くと距離を取って荷を担ぎ直して来た道を引き返し走り去っていった。
「エレナ。薬はあとどれだけありますか? 結局、青い奴だけで大丈夫そうでしたか」
エレナは自分のバッグの口を開けた。硝子の瓶のあいだから同じ革袋を四つ出して、焚き火のそばに並べた。
「恐らく青い方だけで充分かと。王都で噂を聞いた時から気になっていたので準備しておいたのですが、大体20人分ぐらいしか残っていないです」
「では、売りましょう。三層へ降りる隊に一人分金貨1枚で」
リディアが顔を上げた。ゴーレムで実験していた手が止まって、石灰の粉が膝にこぼれた。
「売るって、ここで? 私たち下に行かないの? ここで商売するの」
答えたのはフェリクスではなかった。
「その店、我らに預けてはもらえぬか」
テオドラは布を巻いた左手を膝に置いたまま、こちらを見ていた。頬の剥けた皮は、ようやく乾いて縁が白くなっていた。
「ダンジョンの外に、補給の隊を二つ待たせてある。剣は振れぬが、事務仕事はお手のもので、売店をやれる程度の拠点は作ってある」
「取り分は」
「要らぬ。売れた分は、すべて貴殿らに渡そう」
フェリクスは袋を握ったまま、テオドラの顔を見た。
「薬の代は受け取らぬと言われた。せめて、これくらいはさせてくれ」
帝国の者が売る薬なら、誰が作ったのかを問う者はいない。それに、ダンジョンへ降りる者は皆あの粉を買うことになる。一人金貨1枚、六人の隊なら6枚。日に二組通れば12枚、ひと月で300枚を超える。しかも青茸は、一層にいくらでも生えている。これはもう薬の売買ではなく、三層の通行料の独占だ。そのうえ我々は通行チケットの制作に専念することができ、販売員の給金も不要。父に小壺を買い叩かれたのが、ずいぶんと昔のことに思えた。
「ありがとうございます、お誘いを断り続けるのも心苦しいので承諾いたしたいと思います」
私にも運が回ってきた、ここはさらに顔を売って盤石にすることとしよう。
「テオドラ殿はこれからどうなされますか? お疲れなので地上へ戻られると思うので、不躾ながら護衛いたしましょう」
テオドラは首を振った。
「戻らぬ。明朝、三層へ下りる。手紙を書くので地上の部隊に渡しておいて欲しい。無論、先ほどの商談についても記載しよう」
雲行きが怪しいことをフェリクスは感じ取った。
「亡骸は、奥へ行くほど多くなった。病を撒いているのは層主だろう。早急にあれを討つのが高貴なるものの務めというものだ」
フェリクスの口が開いた。層主が倒れれば、病が止むかもしれないようだ。病がなくなれば薬を買う者はおらず、通行料は関所ごと消える。しかし、Sランクパーティと共に行動できれば心強いのでは? 先導して大変なのは向こうで、何より、我々の勉強にもなる。損切は早めにして多少の利益にあずかることにしよう。家を追い出されてから金がなくて散々なのだ。
「エレナ。念のため聞きますが我々が同じ病魔にかかって死ぬリスクは」
「それは大丈夫です、薬を飲んで回復魔術で補助すれば見た限りほぼないかと」
フェリクスがエルンストに目配せしたところエルンストが頷いた。フェリクスは咳払いをしてから答えた。
「乗りかかった舟です。我々もご一緒しましょう。」
テオドラは真顔のまま頷いた。
「心強い、共に三層を進もうではないか」
◇
下りる支度のあいだに、魔術師の夫婦がリディアの名を聞き直して、顔を見合わせた。夫はオスカー、妻はイルゼ、姓はブラントらしい。妻が荷から紙の束を出した。角の丸くなった写しで、余白には三人か四人の違う手で書き込みがしてあった。
「うわ、これ私が出した触媒の論文。しかも数年前の奴」
リディアは写しをひったくって頁を繰った。
「偶然知り合いの研究者が手に入れたものでした。その人は最初は運よくある程度再現できたのですが、完璧には至らず純度も量もあまりよくなく。話を聞いて興味を持った我々も論文を写して試行錯誤していたのですが、手順も複雑で再現率も低く……」
「知り合いが手に入れたのも写しだよね、色々な学会に出したんだけど採択されなくて。結局地方の小さいところで出したんだよね。ここ、写し間違いのはずで、この順で混ぜると粉が湿気るから効率が悪いの。ねえ、これで試した? 試したなら火はどのくらい出た? え、出なかった? だよね」
夫が帝都の学院で回し読みされている話を始め、あのリディアが真剣に聞いていた。指で地面に何か描き、夫婦は両脇からしゃがんで覗き込んだ。三人の話はフェリクスには半分も分からなかった。
少し離れた岩の脇では、エルンストが砥石を膝の前に据えて、ナイフを研いでいた。その隣に、帝国の隊の五人目が座っていた。肩幅がエルンストの倍ほどもある獣人の大男で、五日のあいだ、声を聞いた覚えがない。三層から上がってきたとき、意識のない神官を担いでいたのがこの大男だった。頭巾の縁から尖った耳の先が覗き、布を握る手の甲まで毛深かった。膝に載せた大盾の表を、油を含ませた布で黙々と磨いている。砥石の擦れる音と、布の擦れる音が、交互にしていた。二人とも、一度も相手のほうを見なかった。名前はボルクと言うらしい。
焚き火の反対側では、エレナが向こうの神官ベネディクトの首の腫れの痕を画帳に写していた。神官は襟の神殿の印を指でなぞっていた。
「レッチェンタールと申されたな」
「はい」
「あそこへは、その……」
「素養と信心の足りない者が送られます」
エレナは炭筆を止めずに言った。神官の指が印の縁を一周した。
「総本山は、あの病は信仰の薄い者がかかる病だと教えている。私は一日も祈りを欠かさなかった」
「では、何故かかったのでしょう」
神官の指が印の上で止まった。
「すみません、意地悪な質問でしたね……私は無条件で神を信じることが酷く歪で、不公平なことだと考えているんですよ。神殿は教典にあるように祈れば、敬虔な信徒であればそれだけで良いことが起きると説いていますが、実際は信仰心がある人にも不幸は訪れます。その状況で神を本当に信じることができますか? 疑うのではないでしょうか」
神官は唾を飲んだ。
「なので逆だと思います。信仰することによって神を信ずることができるのではなくて、神を疑うからこそ本当の信仰が始まって、神に近づくのだと思います。神を疑うからこそ信仰が難しく、だからこそより一層、神を信ずることに意味が生まれるのです」
神官は口を開きかけて、印を離した。エレナは画帳を閉じて神官に囁いた。
「そういう意味では、あなたはようやく、本当の信仰の入り口に立ったのです。神の目の前にいるのです」
◇
その晩、テオドラがフェリクスの盾に手を伸ばした。
「持ってもよいか」
断る理由は思いつかなかった。テオドラは盾を左腕に通し、裏の綱を確かめてから、表の枡の一つを拳で叩いた。乾いた傘が鈍く鳴った。
「軽いな。鉄の骨格に、これは何の素材だ」
「しがない貧乏な探索者でして、マイコニドの傘を干したものでリディアのお手製です」
テオドラは声を立てて笑った。
「創意工夫があって良いな、マイコニドの傘を盾にしたものなど初めて見た」
テオドラが盾を返した。フェリクスは受け取って、表を岩のほうへ向けて立てかけた。
「私にはそのような余地が、自由がなかった。貴殿の様な自由な探索者がうらやましい」




