薬
エルンストは矢の先を、先頭の女の胸に向けた。
「そこで止まれ」
女は足を止めた。ランタンが揺れ、後ろの四人も止まった。肩を借りていた一人の頭が、がくりと前へ垂れた。
エレナがフェリクスの脇を抜けて、エルンストの隣に並んだ。
「弓を下げてください。あの人たちに、こちらへ来る力はもうありません」
エルンストは弦を引いたまま答えなかった。
「私なら治せます。介抱させてください」
「後ろの、肩を借りとるのを見い」
エルンストは顎で示した。その胸に、ランタンの明かりが当たっていた。白い衣の襟に、神殿の印が縫い取ってある。首は垂れたままで、足は床を擦るだけだった。
「向こうの神官じゃ。もう目を開けとらん」
エレナは神官を見ていた。
「神官が祈っても治らん病じゃ、知っとるじゃろ。祈りの届かん病は、信仰の欠けた者がかかる。神官まで倒れとるなら、なおさらじゃろう。それに、うつるやもしれん、近づくもんではない」
リディアは袖で口を覆い、それでも首を伸ばして、女のランタンを持つ黒い指先を覗いていた。フェリクスはリディアの外套の背をつかんで、自分の後ろへ下げた。
「信仰では、病気は治りません」
エレナの声は平らだった。エルンストがエレナを見た。矢の先が、女の胸から拳一つぶん下がった。
「教典の教えでは信仰で治る、そう言われていますが、それは事実ではないです。現にゴブリンの中にも回復魔術を使う個体、ゴブリンプーリストがいます。彼らが我々の神を信仰していると思いますか?」
エルンストは唇を舐め、矢の先を女の胸へ戻した。
「私が赴任していた山の神殿にいた前任の神官は、祈りの効かない病は魔物の仕業だという説を唱えました。目に見えないほど小さな、それでも体を持った魔物です。人の体に入って、中から食い荒らす、だから祈っても届かない。手を洗って、道具を煮て、傷を湯ですすいで、腐った所を切り取ると、死ぬ人が減りました。ところが荒唐無稽な話だと異端に問われかけて、山奥へ送られたんです」
エレナはバッグの中から、小さな硝子の瓶を一つ出した。栓を蝋で固めてあり、底に灰色がかった粉が溜まっていた。歩くたびに鳴っていた硝子の音の一つが、これだった。
「その人の書き付けどおりに、山で作った薬です。カビから取って、乾かしてあります。膿んだ傷に振りかけて、熱の出かけた人が何人も助かりました。調べた結果、差異はありますが青茸も大体同じように効くみたいです。一層の茸で、膿が引いたのはあれだけでした」
エルンストの弦は緩まなかった。
先頭の女が、壁に手をついて座り込んだ。ランタンが床に置かれ、明かりが低くなった。担いでいた者が、神官をその脇に下ろした。神官は横たえられると、喉の奥で低く唸った。
エレナは瓶を握ったまま、エルンストの横顔を見た。
「彼女らにも、帰りを待っている人達がいます。助けられるかもしれない病気なのに、見捨てるんですか」
「前にあんなことがあって、この状況でお主を信用しろと言うのか」
エレナが一瞬硬直した。
「あれは反省しています……もう同じことは起きないし、私も死ぬつもりはありません、誓いましょう。どうかあの時のおこないを償う機会をください」
エルンストは弦を引いたまま、目だけをフェリクスに向けた。
フェリクスは左の袖口に目を落とした。手首の上まで、色の薄い皮が覗いていた。広間で焼けた腕を繋いだのは、エレナだった。
「エレナに任せましょう。ただし、近づくのは彼女一人でどうでしょう」
エルンストはしばらくフェリクスを見ていた。それから弦を緩め、矢を筒に戻した。
「向こうで隔離する。そいつらとエレナのほかは誰も接触せずに距離を取れ。接触したら置いていく」
三層から来たパーティを安全なキャンプ地まで先導した。エレナはバッグを開き、中の物を並べ始めた。畳んだ布が何枚か、栓をした大きめの瓶が一本、薬の小瓶、それから青茸の粉を詰めた革の袋。瓶の栓を抜くと、鼻を刺す酒の匂いが立った。エレナはそれで両手を濡らし、布を二重にして口と鼻を覆い、頭の後ろで縛った。
それから革の袋の口を開け、青茸の粉を指でひとつまみ舌に載せ、水袋の水で流し込んだ。自分で持ち込んだ薬の小瓶には手を付けなかった。
「両方は飲まないんですか」
「両方飲んだら、どちらが効いたのか分からなくなります。大丈夫、私の人生の終わりはここではないはずです。気分が悪くなったら私もそちらを飲みます。それと、お湯をできるだけたくさん沸かしてきてもらえますか」
つまりは青茸と持ち込んだ薬の両方飲んでもダメな場合がありそうだ。目に見えない魔物がいる、荒唐無稽には思えるが、以前山の村へ訪れた際の村人の彼女に対する信頼はかなり厚いものだった。パーティリーダーとしてはどうするべきだったのだろうか。彼女が以前の自分の行動を償いたいというのは本当だろうが、私は止めるべきだったのだろうか。それとも止めなかったこの選択を悔いる日が私にも来るのだろうか。そうではないことを願う。
座り込んだ女の前に膝をつき、手の届く所より半歩遠くに水袋を置いた。女は布をずらして水を飲み、咳き込み、また飲んだ。エレナは自分の椀に水を注ぎ、持ち込んだ薬と青茸の粉を一匙ずつ落として、指で掻き混ぜた。
「飲んでください。苦いです」
女は椀を受け取り、一息に空けて顔をしかめた。エレナはもう次の椀を作っていた。
神官には顎に手を掛けて口を開かせ、匙で少しずつ流し込んだ。喉が一度だけ動いた。
湯が沸くと、リディアが鍋を提げてきて隔離帯の線の手前に置いた。エレナが線の向こうから柄を取り、女の脇まで運んだ。
エレナは女の首の脇に手を当てた。黒ずんだ腫れを指で押すと、女が歯を噛んだ。
「切ります。膿を出さないと、薬が届きません」
女は布の上からエレナを見た。
「我らの神官がずっと祈祷魔術を使ったが効果がなかった、不信心であると見捨てられたのだと嘆いていた」
「知っています」
エレナは小刀を酒精の瓶に浸し、腫れのいちばん柔らかい所に当てた。濁った黄色い膿があふれたのを、エレナは布で拭い、湯で洗い、酒精を注いだ。女の背が反り、指が床の砂を掻いた。
それからエレナは切り口に指を添えて何かを唱えた。淡い光と共に切り口が寄って細い線になった。真ん中に小指の先ほどの口を残したまま、エレナは指を離した。
剥けた頬の皮は根元から切り落とし、縁だけを繋いだ。黒ずんだ指先は爪の上から押して、白くなった所に色が戻るのを確かめてから、布で巻いた。
残りの者にも同じようにした。
エルンストが毛布を丸めて、線の向こうへ放った。エレナはそれを広げて女の肩に掛け、自分は壁に背を預けて座った。小刀は膝の上に置いたままだった。
◇
五日目の朝、エルンストが爪先で線を消した。
焚き火の脇に張った縄で、煮た衣が湯気を上げている。膿を拭った布は前の晩のうちに燃やされ、灰の中に焦げた糸くずが残っていた。この五日、エレナは一度も咳をしなかった。
エレナは酒精で手首まで洗い、こちらへ歩いてきた。壁際では神官が座り込み、襟の神殿の印を握って唇を動かしていた。エレナが前を通ると、神官は立ち上がり一礼した。
「感謝いたします、聖女様、この度はあなた様の信仰心に救われました。失礼ですが、どちらの神殿の所属でしょうか」
「山の上の、レッチェンタールという小さな村の配属です」
エレナは一礼をして足を止めずに線のあった所を跨いだ。神官は首をかしげながら元の場所に座った。
女がそのあとを追ってきた。頬には赤く薄い皮が張り、首の脇の切り口は乾いて閉じかけている。腰に長剣。指先まで布で巻いた左手を、柄頭に載せていた。鞘の革は擦り切れて、下の木が見えた。
女はエレナに追いつくと、右手を胸に当てて頭を下げた。
「命を拾った。隊の者も皆だ。この恩は忘れぬ」
「粉は、あと三日飲み続けてください」
女は顔を上げ、焚き火のこちら側を順に見た。最後にフェリクスで目を止めた。
「この隊を率いているのは、貴殿か」
「ええ」
「薬の代はいかほどか。言い値で払おう」
死を救ってやったのだ、多少ふっかけても罰は当たらないだろうと思っていたがエレナがこちらを睨みつけている。
「代金は結構です」
リディアがこちらを振り向いた。
「それでは、こちらの気が済まぬ」
「では、一つだけ」
フェリクスは咳払いをした。
「ダンジョンを甘く見ないことです。下りる前に、何が起きるかを常に考える。我々レベルともなるといつもそうしています。特にこのダンジョンにおいては下層へは、備えなしに下りるべきではありません」
エルンストのナイフが砥石の上で止まり、また動き出した。リディアは袖で口を押さえて、肩を震わせていた。
女は真顔のまま最後まで聞き、もう一度胸に手を当てた。
「忠告、痛み入る。肝に銘じよう」
それから、布を巻いた左手を剣の柄から離した。
「ここ数日、意識が朦朧としており名乗りが遅れた。テオドラ・ヴェルデンシュタインだ」
フェリクスの口が開いた。北のSランクパーティを率いる隊長、白銀の皇女の異名を持つ北の女帝の妹の名だった。




