二度目
入口から一時間も歩かないうちに、茸の傘が頭の上を塞いだ。
傘の裏のひだは前と同じく青白く光り、菌糸は踏むたびに靴の下で湿った音を立てた。熟れすぎた果物のような甘い匂いも変わらなかった。
フェリクスは歩きながら、ギルドの酒場で聞いた話をもう一度繰り返した。
「三層への回廊が開いていることは既に広まりつつありました。いいですか、絶対に我々があのクリスタルゴーレムを倒したと知られてはいけません。ただ、気になるのは三層から戻ってきた隊の話がないことです」
回廊を開けたのが誰かは、酒場の誰も知らない。
「二層では妙な死体が見つかっています。顔の皮が崩れて、脇の下が黒く腫れていたとか。三層の何かにやられたのではないかという噂はあるのですが、真相は不明です」
返事はなかった。王都を発つ前にも、同じ話を三人にしてあった。
リディアは欠伸を噛み殺して、目の端を擦った。エルンストは先頭で、足元の菌糸にときどきランタンを寄せるだけで、止まらなかった。エレナは杖を突いて歩いていた。前のときは垂れ下がった傘の縁を押し上げては裏を覗き込んでいたのに、今日は杖の先が一度も上がらない。目の前を行くリディアについていきながら、何か思案にふけっている様子だった。
エレナのバッグはひと月前より一回り膨らんでいた。歩くたびに、中で硝子の触れ合う音がした。王都を発つまでの数日、エレナはどこかへ出かけては、包みを抱えて戻ってきていた。何を詰めたのかは聞いていない。加えてリディアの荷物もあれもこれもと頼まれたようで、かなりの量となっている。リディア自身が運んでいる荷物の量は、前回と同程度のようだ。
エルンストに先導され、他の探索者が通る道とは離れたルートを進んだ結果、傘の途切れた空き地に出た。真ん中がわずかに盛り上がり、片側の岩壁では、光る苔を伝って水が細く落ちている。最初の晩にテントを張った場所だった。エルンストは足を緩めずに、その脇を通り過ぎた。
「前回も気になっていたんですが、皆が通る道を意図的に避けているように見えるのですが、何か理由があるのですか」
エルンストは足を止めずに答えた。
「皆が通る道だからこそ用心した方が良い場合もある、浅い層なら特にそうじゃ。ダンジョンで恐ろしいものは何か、色々なものが恐ろしいとは思うが、そのうちの一つが人間じゃ。知恵のあるものほど恐ろしいものはない。野盗に待ち伏せ、襲われたら厄介じゃ。逆に深い層だと状況が変わる、モンスターの方が厄介なのもあって追い剥ぎをする余裕なんぞなく、他のパーティが近くにいたほうが、助け合ったほうがある程度安心できる」
ダンジョンで恐ろしいのは人間、そういう視点を持ったことはなかった。
「人間が時に恐ろしいのは私も同意見です、そのための信仰なんだと思います」
エレナが珍しく会話に食いついてきた。
「今回はこのまま二層まで行く、現状なら二層の方が楽じゃ。お主の刺剣なら既に二層まで馴染んでおるし、エレナも敵との相性が良い。そこでしばらく体を馴らしつつ考えるのが良いじゃろう。その頃までには誰か奥から帰ってくる、金で情報を買ってから先に進めばええ」
父から餞別として渡された刺剣はミスリルでできていた。特殊な金属で、使われるにつれダンジョンのエーテルに馴染み、蓄え、外に出ても抜けることはない。つまりダンジョンの深度に応じて成長する武器みたいなものだ。
新米の探索者が最初の経験を積む主流は商人から比較的浅めのダンジョン素材を使った武具を買って潜るというものだが、これには罠があり、当然のことながら武器は高い。ならどうするべきか、お金を借りるのである。しかし探索者の生還率も高いわけではないことから、利率も高い。ダンジョンに潜って帰ったら利子を払うが、完済するためにはより多く稼ぐ必要がある。結果としてより深いダンジョンでも通用する武具に買い替え、ローンも借り換えることとなる。稼ぎは増えるが借り換えたローンの支払いも増える。結果として、商人を、王国を、経済を潤わすために歯車を回し続けるハムスターとなり、生涯をダンジョンで過ごすことになる。
ミスリルの武器は買い替えが不要な点は良いが、初期投資費用がはるかに高くなるのと、道中は苦労する点が問題だ。すでに慣らしが済んでいるものを買おうとすると結局、深い層の素材で作られた武器以上の値段がするので人気はなく、基本的にはもの好きが新品をオーダーメイドすることになる。
しばらく進んだところ、遠くにゴブリンの集団が見えた。向こうもこちらに気づいたらしく、向かってきた。
エルンストが振り返った。
誰も口を開かなかった。三人が頷き、バッグを下ろした。エレナは自分のバッグを、中の硝子が鳴らないように両手で抱えて菌糸の上に置いた。
リディアは自分のバッグの底から、革の袋を引き出した。拳を二つ並べたほどの大きさで、持ち上げると中で砂のような音がした。あれは何だろうか、以前使った強力な魔術を使うための触媒だろうか。
リディアは軸のまばらなほうへ五歩ほど出て、袋の口を開けた。指のあいだから灰色の粉を細くこぼしながら、横へ歩いていく。地面に灰色の線が十五歩程度の長さに延びた。
「それは」
「二層の魔物を砕いて処理した粉、見てれば分かるよ」
リディアは線の真ん中まで戻ると、こちら側の地面にも薄く撒いた。それから線の前にしゃがみ、両の手のひらを地面に押し当てて、口の中で何か唱えた。
線に沿って菌糸の網がぷつぷつと切れ、下から土が盛り上がり、湿った土の匂いが立った。土は灰色の線を芯にして寄り集まり、膝の高さで止まった。この程度ではゴブリンも飛び越えてくるだろう。粉を撒いた手前の地面が、わずかにたわんだように見えた。
リディアは膝を払って戻ってくると、土塁から二歩ほど手前の地面を足でなぞった。
「みんな、ここから前に出ないでね」
理由を聞く暇はなかった。鳴き声が近づいていた。
フェリクスはなぞられた跡に足先を揃え、盾を左に構えた。背後で、エレナが弓の先を地面に下ろし、鐙に爪先を入れて弦を引き上げる音がした。エルンストは土塁の右の端から少し離れた軸の陰に片膝をつき、矢筒から骨の矢じりの矢を一本抜いた。腰の小壺の栓を外し、準備を始めた。リディアはバッグの脇まで下がり、頭の上の傘を見上げた。
六匹だった。
先頭が土塁の前まで来たところで背後の重い弦が鳴り、胸を太矢に抜かれて先頭が仰向けに倒れた。続けて右で短い弦の音がして、二匹目の胸に矢が立った。
三匹目と四匹目は倒れた先頭を見もしなかった。並んで土塁に駆け寄り、地面を蹴って跳んだ。跳び越えてくる二つの影が盾の縁にかかり、剥いた歯と、振り上げた骨の棍棒まで見えた。切っ先を上げかけたところで、着地したはずの二匹が足元の地面ごと崩れ落ち、目の前から消えた。落とし穴だ。
足元の二歩先で落とし穴の縁から、ゴブリンの頭と肩だけが出ている。片方は切れた菌糸に腕を取られてもがき、もう片方は必死に落とし穴から這い上がろうとじたばたしていた。フェリクスはそのまま盾の縁を下げて地面に立て、盾の脇から、首の付け根を上から突いた。一突きで止まった。
網に絡まったほうへ、エルンストが弓を手に右の縁から歩み寄っていた。ゴブリンが網を引きちぎって腕を持ち上げた。エルンストは上から見下ろしたまま弦を引き、喉元へ射込んだ。ゴブリンは網の中へ沈み、それきり動かなかった。
五匹目は塁の前で足を止め、左の端へ回り込もうとした。リディアが親指を立て、人差し指をその顔へ向けた。指の先から飛んだ火が顔に当たった。毛の焦げる匂いがして、顔を掻きむしりながら来た道へ駆け戻っていく。その背に、二本目の太矢が追いついた。
六匹目は、土塁に近寄らなかった。少し離れた傘の下で仲間の骸を見回し、鳴きもせずに背を向け走り出した。エルンストは穴の縁で次の矢を矢筒から抜いた。つがえて引くまでが一息だった。弦が鳴り、傘の下を遠ざかる背が前のめりに倒れた。
フェリクスは盾の輪から腕を抜いた。指は握りから素直に離れ、前腕には何の跡もなかった。
「その粉は?」
「二層の魔物を粉にしたもの。魔力の親和性が良くて、地面が物凄く操作しやすくなるの」
「上出来じゃ」
体はまだ一層のエーテルに馴染んでいなかったが、学んだ知識と得た経験は着実に馴染んでいたようだった。
◇
「ところでリディア、地面の操作は粉に触れていないとダメなのですか」
フェリクスが聞いた、ちょっとした興味だった。
「粉なしだと、私はこの魔術得意じゃないから難しい。粉があると魔力の通りがいいの、馴染むから楽になる」
「では、例えば縄に粉をまぶして、その端を握れば」
リディアの手が止まった。フェリクスの顔を見てからバッグを引き寄せ、細引きを一巻き出した。手のひらに盛った粉を端から揉み込んでいくと、袋の膨らみが見る間に萎んだ。あの袋で、あと何回落とし穴が掘れるのか。
灰色になった縄を穴の縁まで延ばし、こちらの端を握って唱えた。声はさっきより長かった。穴の縁がひと塊、ずるりと崩れて底へ落ちた。
リディアは縄を放して、手を何度も振った。額に汗が浮いていた。
「行けるけど、重い。縄が長いほどきついし、まぶす分だけ粉も使う」
リディアは灰色の縄を手と肘で巻き取り、粉を払い落とさないまま、バッグの口に押し込んだ。
エルンストが荷を背負い直した。
「行くぞ」




