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ブレイブメーカー  作者: M.Shah
第一部
11/24

餞別

 診療所を出るとき、エレナはフェリクスの左腕を取り、肘の下の色の薄い皮を親指で一度押した。


「もう、普通に使って構いません」


外套の内には、布でくるんだ小壺が一つ入っていた。下から持ち帰った物の一つだった。栓の上から蝋で封をして、さらに革紐を十字に掛けてある。歩くたびに、胸の前で小さく重かった。


ハーゲン家の門の脇に立つ下男は、フェリクスの腰の空の剣帯を見てから、顔を見た。通されたのは裏口だった。廊下の奥の客間から、長兄の笑い声と、聞き慣れない男の声が漏れていた。今日の客の前に、三男は並べられないらしい。フェリクスは足音を殺して、使用人の階段を上がった。


書斎の扉の前で、執事が一度だけ咳払いをした。


父は書類から顔を上げなかった。ひと月前に任命状を滑らせた机の端は、今日は封をした書状の束で埋まっていた。インクと封蝋の匂いがした。


フェリクスは外套から小壺を出し、書状の上には置かず、机の空いた角に立てた。


「ダンジョンの素材を精製した毒です。矢じりを浸せば、肩をかすめただけのゴブリンがしばらくして息を止めます。飲ませても効きます。解毒薬も見つけてあります」


父のペンが止まった。顔は上げなかった。


「誰が知っている」


「四人だけです」


「出どころは」


「下の層、ということにします」


「一層か」


ペンがまた動き出した。


「一層の物なら同じ物がすぐに出回る、そんな物のために私の時間を無駄にしたのか」


「毒のほうは、並大抵の錬金術師では作れません」


父はペンを置いた。初めて顔を上げ、小壺を見て、それからフェリクスの袖口に目を留めた。色の薄い皮が、手首の上まで覗いていた。


「腕は」


「焼けました。繋がっています」


父は小壺に目を戻した。


「解毒薬を付けて、一壺、金貨40枚。前金で払う。残りも同じ値で引き取る」


貴族が相手なら一壺で100枚は付くが、父が仲介すれば取り分は半分も残らない、と三人には言ってあった。当たったところで、慰めにはならなかった。


「100で買う相手がいます。70にしましょう。もう少し何とかなりませんか」


父はため息をついた。


「100で買う者がどこにいるか、おまえは知っているのか」


フェリクスは答えなかった。


「夜会に三つ四つ顔を出して、誰が誰を邪魔に思っているかを聞き分ける。聞き分けたら、その家で話の通じる者を探す。執事か、主の妹か、出入りの医者か。ハーゲンの名は出せんから、間に二人挟む。挟んだ二人が酒場で喋らんように、心付けをしておく」


父は折っていた指を開き、机の上に伏せた。


「それに、こういう物は欲しがる者が少ない。今日売れるとは限らん。売れるまで抱えるのはこちらで、抱えているあいだに漏れれば、ハーゲンは毒を流した家になる」


フェリクスは小壺の革紐の結び目に目を落とした。夜会の数も、間に挟む二人の口止めも、勘定に入れていなかった。


「これでも譲歩してやっている。前払いで払ってやるんだ、礼の一つも言ってほしいくらいだ。他にもあるなら持ってこい、同じ条件で買ってやる」


父は引き出しから小切手の綴りを出し、ペンをインク壺に浸した。書き終えると吸い取り紙を当て、一枚ちぎった。


「おまえは昔から少し抜けているところがある。経験が足りないからだ、まずは経験を積め」


小切手が机の端へ滑ってきた。フェリクスは額面を確かめるふりをしてから、小切手を机に置きなおした。


「明日また来ます」


実際は仲間と話し合う必要があった。父の話は概ね事実だろう、が、もう少し交渉の余地はありそうだ。どちらにせよ父が相手なので今日は話を出す程度で終わらせる気であった。交渉で相手の条件を飲んで即決するのは三流、父から学んだことだ。


机の上の小壺を回収し、一礼してから身を翻し、扉の把手に手を掛けたところで背中から声がかかった。


「それと、刺剣はどうした? まさか質に入れたんじゃあるまいな。ミスリルの業物だぞ?」


フェリクスは片眉を上げた。あの爪楊枝程度の攻撃力しかなくて泣かされた刺剣が業物? 冗談は……と考えていたらミスリルの特性を思い出した。額から汗がだらだらと出始めて動悸がした。


フェリクスは右手を腰にやった。剣帯には何も下がっていなかった。あの刺剣はどこだ……? 確かリディアが預かっていると聞いた気がする。


「……直しに、出してあります」


父はもう書状に目を戻していた。


「なら、いい」


フェリクスは扉を閉め、執事のあとについて裏口へ下りた。ミスリルの刺剣が金貨で何枚になるのか、勘定はすぐには出てこなかった。



◇



 リディアの工房は王都の外れの倉庫で、扉の外まで酢と焦げた毛の匂いがした。


戸を叩いても返事がなかった。押すと開いた。奥の作業台で、リディアが椅子の上に膝立ちになっていた。台の端に焼き物のろくろのような木の円盤が据えてあり、鉄の板が一枚、真ん中を釘で留めてある。脇には木を組んだ台が楔で締めつけてあって、上の枠に親指ほどの赤い結晶が挟まっていた。結晶の横には乳白色の石のかけら、先には丸い硝子が一枚。リディアは石に左の指先を当て、右手で円盤の把手をゆっくり回していた。鉄の板の縁近くに、白く灼けた点が一つあった。点はその場から動かず、その下を板が回って通っていく。火の粉が細く散り、焼けた鉄の匂いがした。点の通ったあとはしばらく赤く、それから黒い溝になった。把手が一回りしたところで、溝は切り始めにつながった。外側の輪が、かたんと鳴って台に落ちた。


「あ、起きたんだ。前の盾、燃えちゃったでしょ」


リディアは指を離し、手を前掛けで拭いて、作業台の下から木箱を引き出した。蓋を開けると、藁のあいだに小壺が五つ並んでいた。


「精練したやつ。ここ、酢がいくらでも買えるんだもん。下とは大違い」


それから壁に立て掛けてあった細長い包みを取り、フェリクスに押しつけた。布を解くと、刺剣だった。鞘から抜くと、刃はまっすぐに通っていた。


「曲がってたからね。鍔の手前で、こう」リディアは手のひらを斜めに折ってみせた。「ドワーフの親方に頼み込んで、炉を使わせてもらったの。普通の炉じゃ赤くもならないんだから。炭代、あとで払ってね」


フェリクスは刺剣を鞘に戻し、剣帯に下げた。重さが腰に戻った。


「これからどこ行くの」


「エルンストに会いに」


「じゃあ、ついでにこれ」


リディアは作業台の引き出しから、油紙の包みを二つ出した。一つは細長く、一つは小さく重かった。細長いほうを開くと、片刃のナイフが出てきた。灰色の刃に、光の加減で青く流れる筋が一本走っている。小さいほうには、同じ色の矢じりが六つ入っていた。


フェリクスはナイフを包みに戻した。


「武器は、作らないのではありませんでしたか」


「ちょっといい素材が手に入って……ブレードマンティスの素材だよ!」


リディアは椅子の上で跳ねた。


「灰の坑道の一番下の主から取れる素材だよ。100回倒しても、剣一本分取れるかどうかって言われてる素材。そんなのが手に入ったら、打つでしょ。いいところは全部ナイフにして、残りは矢じり。端っこまで削ったら六つになった。もっと取れると思ったんだけどなあ、あの光、ほんとに真っ直ぐ切るんだね。断ち口がつるつるで」


リディアは作業台に向き直って、鑢を取った。フェリクスは油紙の包みを外套の内にしまった。


「刺剣がミスリルだと、知っていましたか」


リディアは首をかしげた。


「見れば分かるじゃん。むしろ、宿の食堂でそれ見たから、この人お金持ってると思って声かけたんだし」



◇



 王都の外れの酒場は、昼でも床が麦酒で靴底に粘った。エルンストは奥の卓にいた。膝の上で革袋の口を開け、銀貨を一枚ずつ指で弾いては、もう一方の手に移していた。フェリクスを見ると、革袋を卓に置いて立ち上がった。


「そこに立て」


フェリクスは卓と卓のあいだに立った。拳は左から来た。頬の内側が歯に当たって切れ、鉄の味が広がった。膝が一度折れかけて、卓の縁に手をついた。隣の卓の話し声が止んだ。


「それで許してやる」


エルンストは椅子に座り直し、また銀貨を弾き始めた。


「石の鳥の翼と、蜘蛛の脚と、結晶のかけらじゃ。ギルドの表の値より、二割は上で売れた」


「誰に売ったんです」


「細工師と、石屋じゃ。ギルドの取り分が浮くぶん、向こうも安う買える」


フェリクスは向かいに腰を下ろし、油紙の包みを二つ卓に置いた。


「リディアからです」


エルンストはナイフの包みを開き、刃を窓の明かりに傾けた。青い筋が流れた。親指の爪に刃を当て軽く引いたところ、爪の表に細い線が一本残った。腰の古いナイフと並べて卓に置いた。古いほうの柄は、握り込まれて黒く光っていた。


「小壺の方はどうじゃった」


「解毒薬と合わせて一壺、金貨40。大口購入で前払いを提示されました。ブローカーも考慮するとそうなると言われましたが、交渉次第では50でいけるかと」


エルンストは弾きかけた銀貨を、指の上で止めた。


「ワシの伝手は解毒薬と合わせて金貨45じゃったが、後払いな上に輸送と在庫の問題がありそうじゃった。40だとしても上出来じゃ、抱えんで済む」


それから、フェリクスの腰の刺剣に目をやった。


「買い替えんのか?」


「ミスリルだそうです」


エルンストの両の眉が上がった。弾きかけた銀貨が指から落ち、床を転がって卓の脚に当たった。


「見せてみろ」


フェリクスは剣帯から鞘ごと外して渡した。エルンストは刺剣を抜き、窓の明かりへ切っ先を掲げて、目を細めた。刃を返し、また返した。それから古いナイフの柄頭で、刃の腹を軽く叩いた。一度。耳を寄せて、もう一度。三度目は鍔の近くを叩き、音が消えるまで動かなかった。


「ミスリルのようじゃ」


エルンストが精査してようやくわかるものが、どうしてリディアは横目でわかるのか、何故父は自分がわかると思ったのかフェリクスは頭をかかえた。

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