告解
目を開けると、白く塗った天井に雨の染みが広がっていた。窓の下を荷車が通り、輪が石畳を噛む音が遠ざかっていった。大聖堂の鐘が三つ鳴った。王都の鐘だった。
隣の寝台で、誰かが寝返りを打つたびに呻いた。
体が重かった。敷布から、洗い晒しの麻と石灰の匂いがした。
窓際の椅子で、エレナが画帳を膝に載せていた。卓の上に、親指ほどの赤黒い欠片が一つ置いてある。エレナは欠片を指先で転がしては、炭筆を動かしていた。
「あれから何日が経った」
声がかすれた。エレナは炭筆を置き、水差しからコップに水を注いで、フェリクスの右手に持たせた。
「五日です。上までは二日。私が背負いました。そこから荷馬車で一日」
二層の底から地上まで、大人の男を背負って二日。エレナの肩は、自分の胸ほどの高さしかない。荷運びを雇えば銀貨何枚になるか、勘定しかけてやめた。
「治療は上手くいったと思ったのですが、中々目を覚まさず。エルンストに怒られて、ダンジョンから撤退することになりました」
フェリクスは左腕を持ち上げた。痛みはなかった。肘の下に、手のひらほどの、まわりより色の薄い皮があった。つるりとして、毛が一本もない。指で押すと、そこだけ厚い手袋越しに触っているようだった。指を握り込み、開いた。どこも突っ張らなかった。
「少々火傷をしていた部分は筋と神経、皮を再生して整えました。リディアさんが言うには焦点?が合っていなかったから腕は切断されなかったとのことです」
「エルンストとリディアは」
「エルンストさんは、下で拾った物を売りに。ギルドを通さなければ、もう少し高く売れるそうです。リディアさんは工房です。ここの払いは、リディアさんがあなたの財布から」
寝台が六つ並んだ部屋で、窓際の一つが自分のものだった。王都の診療所で窓際なら、一晩銀貨1枚は取られる。卓の端に財布があった。口の紐はフェリクスの結び方ではなかった。
寝台の脇を見回した。壁にも、寝台の下にも、刺剣はなかった。
「刺剣は」
「リディアさんが持っていきました。曲がっていたので」
ゴリナにメイスで柄頭を打ち込まれた刺剣だ。曲がりもする。あの剣には散々泣かされたのでどうでもいい。質にでも出してもっと良い、迷宮素材の剣を買おう。
金が残っていればの話だが。
フェリクスは水を飲み干し、コップを卓に置いた。
「二打で倒せなければ下がると事前に取り決めをしていたはずです」
エレナは画帳を閉じなかった。炭筆を取り直し、欠片を一本、紙の上でなぞった。
「はい」
「なぜ撤退指示を無視したんですか」
炭筆が止まった。窓の外で、また荷車が通った。
「妹がいました」
エレナは画帳を膝から下ろし、卓に伏せた。
「私が六つで、あの子が四つでした。孤児院の裏の森へ、二人で木の実を拾いに行って。牙のある犬より大きいものがいて、あの子を咥えて、森の中で食べ始めました」
フェリクスは右手で毛布の端をつまんだ。
「私は何度も棒で頭を叩きました。ただ、魔物はこちらを見もしませんでした。妹を貪り終えてお腹が膨れたら、私のことは置いてどこかへ行ってしまいました」
エレナの声は術の順を話したときと同じ調子で無機質だった。
「あの子の体を手当てしようとしましたが、どこから繋げばいいのか分かりませんでした。必死に体をつないだのですが、たぶんどう頑張ってもどうにもならなかったんだと思います。もう死んでいましたから。最後に大人に見つけてもらえるまで、ずっとそうしていました」
エレナは裾の上から、自分のふくらはぎに手を置いた。
「私だけが残されました」
頬を涙が一筋伝った。エレナは拭わなかった。
「神がいるのなら、あの子はああはならなかった。だから、いないことにして、解剖して、覚えて、繋いできました。でも、ずっと、死ぬ場所を探していたのかもしれません」
フェリクスはコップに手を伸ばしかけて、空なのを思い出した。
「二打目を打てば、あれはこちらを向く。なんとなく分かっていました。二打で済むのか、それとも私を向いて、私の方が速いか、撃たれて死ぬか、もしくは撃たれたうえで私が生きていたら」
エレナは欠片をつまみ上げ、窓の光にかざした。
「何か答えが得られるんじゃないかと思ったんです」
胴元のいない賭けでオッズは不明、チップは彼女の命、それでも彼女は実行に移したのだ。自分には理解できない。実利で考えれば何も得はない。そう考えるように育てられたし、今でもそう思う。しかし自分に彼女を否定する権利はあるのだろうか? 彼女が必要だと思ったのであれば、後は彼女が決めるべき問題なのかもしれない。彼女が自分の忠告に従い賭けから降りたら、彼女は人生の主導権を他人に預けたことになる……そのような人生は、恐らく後でひどく後悔することになるだろう。
「賭けに勝ったか聞いても?」
「神に祈る人たちは、祈れば神がいると思っています。私は祈らないので、自分で確かめに行くしかありませんでした。確かめに行った分だけ、近くまで行ったと思います」
「全部できる神様がいたら、退屈すると思うんです。だから何もできない不自由な私として生まれて、森で遊んで、妹を食べられて、解剖して、覚えて、割れそうで割れない核を叩いてみる、面白い冒険に連れて行ってくれる人とパーティを組んで、その行く末を見届けるのが私の宿命なんだと理解しました」
フェリクスは口を開け、閉じた。理解が追いつかない。ゴリナの頭がおかしいのは前々から知っていたが、脳みそも筋肉で出来ているのかもしれない。
「大丈夫です、理解してくれとは言いません。私も寛容なので、今考えられている不敬なことは怪我に免じて許してあげます♪」
エレナは小さく笑い、水差しから空になったフェリクスのコップに水を注いで、席を立った。
「お水、もう少し貰ってきますね」
戸が閉まると、窓の隙間から濡れた石畳の匂いがする外の冷たい空気が入ってきた。
フェリクスは卓の端の財布を取った。紐をほどいて確認するまでもなく、軽かった。




