4.あの日の記憶
最初に思ったのは、かわいそうに、だった。
いきなり子爵家から伯爵家に放り込まれるなんて、と。大人の都合に振り回されて生き方を変えなければならないなんて、大変ね。
ロザリー。二つ下の私の義妹。父が浮気していなかったのだと計算してしまった私は、母が願った可憐な女性からは程遠いのだろう。
挨拶してすぐにパッと義母の背中に隠れてしまった義妹。せめて、と心細そうにしているあの子に寄り添ったら見せてくれた、控えめな笑顔が印象的だった。
「おねえさま」
「どうしたの、ロザリー」
「かみのけ、むすんでくれる?」
生活に少しは慣れたのだろう、今まで出会わなかったタイミングでロザリーが近づいて来た。まだおそるおそるといった様子だが、手に持ったブラシとゴムを私に見えるようにして寄ってくる。
出会った時には短かった髪の毛が、肩を少し隠すくらいまで伸びている。ロザリーには身支度を手伝うメイドをつけているはずだけど、どうやら私のところまでわざわざやってきたようだ。
頼られて嬉しくないはずもなく、不安そうなロザリーに頷いてから手招きする。私の部屋がすぐそこなので、ロザリーが置いてきたと思っているメイドに目配せしてから、部屋に入った。
「それで、どんな髪型がいいのかしら?」
「あのね、おねえさまみたいにふわふわがいいの! 絵本に出てくるお姫様みたいでしょ?」
ロザリーの髪の毛は金よりも茶色に近い。金髪のわたしのほうが、ロザリーの言うお姫様のイメージなのだろう。紫の目をしている私では、絵本に出てくる金髪で青い瞳のお姫さまにはなれないのに。それでも私みたいだと言って笑うロザリーの希望を、できるだけ叶えてあげたいと思う。
「それじゃあ、お姫様? 髪の毛に触りますね」
「はーい」
ドレッサーの前に座ったロザリーは、満足そうに笑っている。メイドが用意してくれたブラシを手に取ってから、私はゆっくりと顔を上げた。
私のようなふわふわ、はどうやればいいのだろう。自分で髪を梳かすくらいはしているけれど、髪の毛をまとめるのはメイドに手伝ってもらっている。そして私は、髪型のリクエストをしたことがない。
「どうしましょう……」
「おねえさま?」
「お姫様、お嬢様。私にも手伝わせてもらえませんか?」
髪の毛をブラシで撫でるしか出来なかった私に、声をかけてくれたのはお母様付きだったメイド。目尻に皺が寄り、髪の毛に白いものが混じり始めた彼女は、お母様が亡くなったからと、辞めることになっていた。あと数日もすれば、少し丸くなり始めた背中も見ることは無くなってしまう。
「最後に、一緒の思い出を作らせて欲しいのです」
「最後……そうね。お願いするわ」
彼女にとっても私にとっても、最後となるだろう、記憶。お母様の前で泣いている顔が残るよりは、こうして一緒に手を動かして笑いあった思い出が残るほうがいい。
「えー? ロザリーはおねえさまにやってほしいの!」
「魔女が一緒に、お姫様をうんとかわいくして差し上げますよ」
「それならいいよ! ロザリーね、おねえさまみたいなふわふわになりたいの!」
「はい、かしこまりました」
彼女は、本当に魔女のように鮮やかに、ロザリーの髪の毛をきれいなふわふわに仕上げてしまった。迷いない手つきをただ見ているだけの私の髪の毛も、姉妹らしく似たようにまとめ上げて。
ロザリーは、私と一緒だと喜んでいたし、そのはしゃぎようを見て、彼女も嬉しそうに微笑んだ。
そうして次の日には屋敷を出て行ってしまった。彼女を探すロザリーを慰める私の手つきは、彼女のように鮮やかではなかったはずだ。何度も髪の毛を引っ張ってしまったし、ブラシに絡まったところは痛かっただろう。
それでも、涙をこぼさないように堪えた目をしながらも、ロザリーは笑っていたのだ。だから、私は彼女の認識を改めた。ただのかわいそうな子ではない、必死に馴染もうとしている強い、義妹だと。
「リリアーナ、今日はこちらで勉強だ」
「お父様?」
お母様が亡くなってから、お父様が執務室にいる姿は見たことがなかったし、私が入ることは許されなかった。
久しぶりに名前を呼ばれてついていった先は、あの日以来、扉が開かなかった執務室。
入った瞬間に届いた香りに懐かしい、そう思ってしまって泣きそうになる。入り口で動けない私を置いて、足を止めることなく机の前に立ったお父様は、今まで聞かなかった大きな音を立てて、椅子に座る。
「今日からは、お前に家の執務を学んでもらう。これからこの家を守っていくのは、お前なんだよリリアーナ」
「私が、この家を……」
「そうだ。私だって幼いお前にこのような事をさせたくはない。だが、父はずっと共にいられるとは限らないのだ。
……賢いお前なら、理解してくれるだろう?」
「はい、お父様」
鋭い目つきをしたお父様の気迫に押されて返事をした自覚はあった。ずっと共にいられない、その言葉にガツンと頭を殴られたような感覚だってあった。
ただの咳が長引いていると思っていたのに、あっという間にベッドの住人となり亡くなってしまったお母様。その姿を、間近で見ていたからこそ。
私が大きくなって婚約者ができるまで、お父様とずっと一緒にいられるとは限らないと知ってしまったから。
その日から、私の生活は朝から晩まで執務室にこもる日が続いた。だから、気付かなかった。
毎日一緒だったはずのお父様がいない日が増えていたのにも、お母様付きの彼女が家を去ってから使用人たちに知らない顔が増えていったことも、物静かだと思っていたお義母様が家の事に口を出し始めていたのも、ロザリーが寂しそうにしていたのも。
「おねえさま……」
「なにかしら、ロザリー」
遠慮がちに声をかけてきたロザリーに、苛立ちがなかったとは言えない。その日は、お父様もずっといないし書類は山を作っているしで、不満が溜まっていたから。
そっけなかった私の返事に、ロザリーがそれ以上の言葉を続けることはなかった。
下を向いてスカートに皺が出来るまで握りしめている手を見ていながら、私は自分から声をかけることはなく、ロザリーの言葉を待った。きっと、それがよくなかったのだろうと今なら分かる。
「ロザリー、言ったでしょう? あのようにすましたかわいくない返事はよくないと」
ロザリーの肩をそっと抱いてから、私に視線を向けてきたお義母様は、見たことのない笑い方をしていた。ロザリーの気に入っていた絵本に出てくる、お姫様に無理を言いつけるお妃様のような、歪んだ笑顔。その表情が、下を向いているロザリーからは見えるはずもない。
「どうして、おねえさまは仕事をしているの?」
「エドガー様、お義父様がそう望んでいるのよ。ロザリー」
「私だって……っ!」
いつもだったら聞き流せていたはずの言葉が、私の中の何かを揺らす。
唇を噛んでもこらえきれなかった感情が、すっと目から零れ落ちた。泣いたところで、お父様が執務室にやって来てくれるわけではない。書類の山が、減ることもない。
それでも、誰かに聞いて欲しかった。私だって、自分の好きなように生活をしたいと思っているのだと。
「あらぁ、泣いていてもかわいくないのね。机にかじりついているからかしら」
「……どうして、」
それ以上は、言葉にならなかった。どうして、そんなことをぶつけてくるのだろう。どうして、私はかわいくないのだろう。
どうして、なんて答えのない問いかけが、私の頭の中をぐるぐる回り続けている。
ロザリーの顔は、滲んで見えなかった。
しばらくして、行きましょうとロザリーの肩を抱きながら、お義母様は廊下を曲がっていった。メイドは私に小さく頭を下げると、背中を追いかけて行った。あのメイドの顔は、見たことがない。
そういえば、少し前に面接したという書類を見たような気がする。毎日増える書類に、やる事も多くて、全然覚えていられないけれど。
私がまとめた書類を見たお父様が褒めてくれるのは嬉しいし、家のために役立てているのだと思えば、やらないという選択肢はない。だって、そうしなきゃいけないのだから。
「……執務室に、行かなきゃ」
お父様は、向こう一週間ほど見ていない。朝食は用意されているから、家にいるはずなのに。家令のアルバートがもってくる書類は、ある程度の処理は済んでいるけれど、最後には家の主であるお父様の署名が必要なものが増えてきた。だんだんと山を作り出したその書類は、まだなくならない。
もしかしたら、このままずっと書類に囲まれて、自分の好きな事をする時間を削って家のために生きていくのではないか。そう考えたことだって、何度もある。
けれど、そのたびに思い出すのはお母様が生きていた頃に満ちていた優しい香りと、お父様の言葉。
「私が、この家を守るの。……役に立たないと、いけないのよ」
茶色の髪をふんわり、ゆるやかにまとめていたロザリーの姿が思い浮かぶ。絵本のお姫様ほどではないけれど、十分にかわいらしい出で立ちだった。それに比べて、執務室と自室の往復しかしていない私は、確かにお義母様に言われるようにかわいらしさはない。お母様がきれいねと褒めてくれた金髪、今は飾り気もなくただ首の後ろで一つにまとめるだけ。ドレスだって、動きやすさでしか選んでいない。
それで、いいのだ。私は、この家を守って生きていくのだから。
「家の事はお義姉さまに任せればいいのでしょう?」
いつだったか、家庭教師がロザリーと話しているのが聞こえてきた時のことだ。その頃には、お父様は私に家の事を全て任せてお義母様とロザリーと一緒にいる時間が増え、交際費も右肩上がりになっていた。
私は、相変わらず自室と執務室の往復ばかりで、ずっと来てもらっていた家庭教師にも事情を説明して、学ぶのを止めていた。家の執務ばかりで、学ぶ時間を作り出すことが出来なかった、とも言える。
領地から届いた抗議の手紙に対応するべく、参考になりそうなものを探していた時に聞こえてきた、ロザリーの声。
「だって、お母さまもお義父さまもそうしているわ」
家庭教師をつけていても学ぶ速度がゆっくりなのか、同じ年頃よりも少し幼い話し方をするロザリー。お義母様から言わせれば、そのくらいの方がかわいらしいとのことだけど、どうも私とは会話のスピードが噛み合わない。
「よろしいのですか、お嬢様」
「……いいわ。時間がもったいないもの」
最近は会話することも減ったし、顔を見る機会だって食事の時くらいだ。私が何かを言ったところで、ロザリーがかわいいから当たりが冷たいのだというお義母様の言葉を信じる程度の関係しか、築けていない。
本人のためにならないからと訴えたところで、愛らしさがあれば男性はロザリーに夢中になる、と自分が伯爵家の後妻になったことを引き合いにして主張するのがお義母様の常だから。
「あなたも、ロザリーにつきたかったらすぐに言ってちょうだいね。シンシア」
「一応、留めておきます。ですが、私はお嬢様付きから配置換えを願うつもりはございませんので」
「そう。ありがとう」
先日から私に付いてくれるようになったメイド、シンシアのおかげで、今までより少しだけ執務の負担は軽くなった。これなら少しは自分のために使える時間が出来るかしら。
そんなことを考えながら、私は今日も執務室の扉を開く。




