20.遅れてきた嵐
テオドール様の婚約者となった翌朝。あまり眠れなかったけれど、目を覚ましても夢の中にいるような心地でいたときに、その一報が届いた。
「やあ! 君がリリアーナだね! ようやく会えて嬉しいよ!」
慌てて準備をしてから玄関へ出迎えに行こうとしたとき、テオドール様と同じ髪色をした壮年の男性に声をかけられた。
私を見つけた瞬間に、ぱっと喜びの色を見せた表情と雰囲気は違うけれど、髪色が誰の肉親であるかを告げている。
「あの、イングライト侯爵……とお呼びしてよろしかったでしょうか」
「その通りだよ。さすがにすぐ気づかれてしまったか」
「もちろんです。私の後見人を引き受けてくださったこと、大変感謝しております」
合っていたことにまず安堵したけれど、それならばきちんと伝えておかねばならないことがある。アンティケードから、貴族という看板だけを持ってフォンティエールに来た私のことを引き受けるなんて、何の旨みもなかっただろう。
テオドール様が送るという定期報告に、感謝の言葉をつづった手紙は同封させてもらっていたけれど、それでも直接伝えたかった。
イングライト侯爵は私の言葉を聞いて笑みを深くする。テオドール様と同じ髪色で、顔の造形も似ているのに侯爵は人懐こいと呼ばれるような笑い方だ。テオドール様のお父様だから、もっと距離を置かれるかと思っていたのに。
「気にしなくていいよ。見て分かったと思うけれど、部屋は余っているからね。
それよりもどうかな。暮らしに不便はないかな?」
「ありがたいことに、皆様にとても良くしていただいております」
「そうかそうか! それなら、こちらも何も言う事はないよ!」
近づいて来た侯爵は、私の肩を抱いた。普段からそうやって人と接しているのだろう。ためらいもないその仕草に思わず息をつめた。
大胆な行動に目が行ってしまったけれど、肩に触れたのはその一瞬だけ。周りの使用人が様子を確認したのを見るや、わずかに触れる程度まで手を離す。
そっと触れた肩には、ほんのりとした温もりが残る程度。実の父ともこれほどまでのコミュニケーションを取ったことがない私にとって、これは婚約者のお父様との距離として正しいものなのかどうかの判断がつけられない。
なすがままになっていると、ずっと後ろで控えていた女性から声がかかった。
「あなた。リリアーナ様が困っています」
「これはすまない。淑女……いや、息子の婚約者に対して失礼だった」
背中に流れる金髪に、淡い水色の瞳。少し垂れた目元は、柔らかな印象を残す。けれど、一言でイングライト侯爵の行動を改めさせたのだから、ただ柔らかいというだけでは片付けられないだろう。
イングライト侯爵に、あなたと呼びかけた女性、つまり侯爵夫人なのだろう。女性の隣に移動したイングライト侯爵が申し訳なさそうに、けれど愛おしいという感情を隠しもせずに小さな声でなにかを話している。
侯爵夫人のにこやかな笑みに見惚れていたら、後ろからバタバタといつになく焦っている足音が聞こえてきた。
「父上、母上。いつお戻りになったのですか」
「今さっきよ。この人ったら、荷物を置くこともしないで、真っすぐに向かうんですもの」
「この堅物息子に婚約者と聞いたら、落ち着けないだろう」
ピクリ、とテオドール様の肩が揺れたようにも見えたが、そっと窺った顔色はいつも通り。父から堅物と呼ばれるのが気に障ったのかと思ったのに、どうやら私の勘違いだったみたい。
「お戻りになったのだったら、きちんと紹介をさせてください。彼女にも、準備の時間が必要なのですから」
彼女と呼ばれて、テオドール様の手が肩に添えられる。侯爵に触れられたことを知らないはずなのに、同じところに触れる。ただし、しっかりとした力で。
テオドール様の手元に目をやった侯爵夫人が嬉しそうに笑う。テオドール様が今まで関わってきた女性とどのような関係を築いていたのかは、ざっくりとしか聞いていない。交流会の時に見た周りの態度や、こちらに来てからの私に向けられる視線から想像するのは、簡単だけれど。
「午後にお茶の席を設けるわ。リリアーナ様との紹介はそこで。いかがかしら?」
「もちろんです。あの、様付けなどされる身分では……」
私の言葉を最後まで聞くことなく、イングライト侯爵が挨拶もそこそこで背中を向けてしまった。思っていたよりも、自由な方なのかもしれない。その背中を追いかけて行った侯爵夫人にも、きっと私の言葉は最後まで届いていない。
「大丈夫、あれで母上はきちんと話を聞いている。それより」
ご両親をフォローする言葉は、ため息交じりで告げられた。それより、と区切ったテオドール様の目が据わっている。水色の瞳が、じっとりと私を見ている。私はテオドール様のご両親が今にも戻ってくると聞いて、慌てて出迎えに向かったのだけれど、なにか相応しくないところがあっただろうか。
「父上に、変な事を聞かれたりは? なにか、不愉快に思ったのなら教えて欲しい」
「……なにも、ありませんでした」
正直に言えば、いきなり肩を抱かれたのにはびっくりしたけれど、触れていたのはわずかな時間だけ。不愉快ではなく、ただ驚いて私が固まってしまっただけだ。
「それよりも、午後にお茶の席、と仰っていましたよね。私にテオドール様のご両親のお話を聞かせてもらえませんか」
「……」
「テオドール様?」
今の状況だと、私にだけあまりにも情報が少ない。ご両親が私の事をどれだけ調べているか分からないのだから、粗相のないようにテオドール様から話を聞けるのは、今しかない。
イングライト侯爵が領地にいる間の仕事をテオドール様が受け持っていたから、忙しいのは十分に承知している、けれど、テオドール様は処理の手が早い。アンティケードにいた時の私のように毎日夜遅くまで書類と向き合わずとも、余裕を持って片付けているのも知っている。
「昨夜は……呼んでくれたのに」
ぼそりと落とされた呟きに、一瞬で顔に熱が集まったのが分かった。昨夜、夢の中にいるようなふわふわした気持ちだったけれど、呼んだというのだったら思い当たるのはひとつしかない。
「テオドール様、それは……」
あの場だけで許されたのでは、ないのだろうか。まだシンシアにも話していないから、共に出かけた一晩で関係が変わったのだと、周りに伝えることになってしまう。迷惑には、ならないのだろうか。
「君が呼んでくれたなら、時間を取ろう。リリアーナ」
「……テオ様。私に、ご両親のお話を聞かせてください」
昨夜は、周りに誰もいなかった。今は違う。周りには使用人がいて、私の後ろにはシンシアが控えていて。
テオドール様が私を呼ぶ声にも反応しなかった使用人の皆は、とても優秀だ。けれど、私がテオ様と呼んだ時には気にしていない素振りでいたけれど、注目が集まったのが嫌でも分かった。
「ああ。では、私の使っている執務室へ行こう。あそこなら、両親は入ってこないはずだ」
そうして向かった執務室、資料の整理に書類処理のお手伝いに、とよくお邪魔しているから慣れているはずの部屋なのに、どこか緊張してしまう。
「午後までは短いが、少しばかり話をしようか」
「よろしくお願いいたします」
お互いに時間がないことは分かっているので、あとはテオ様の話を私が頭に叩き込むだけ。
そのなかに、テオドール様と呼ぶのは距離があるような婚約にしか見えない、と何度も言われる流れが出来ていたのは今でもやられたと思うけれど。
結果として、私はテオ様と呼ぶようになった。大変満足そうなテオ様を見て、何度目かのずるいが口から洩れてしまったのは仕方のないことだろう。




