19.ほろ苦いスタート
しん、と静まり返った会場に、テオドール様の声が響いた。これだけ静かなのだから、聞き逃す人などいない。
この会場にいる誰もが、テオドール様が今、何を言ったのかをしっかりと耳にした。つまり、私が公の場で婚約者に請われているということを。
こんな、大勢の人がいる前で何を言い出すのだろう。テオドール様がどうしてこの場で行動に出たのかは分からないけれど、パーティーに予定されていた出し物、というわけではなさそうだ。
周りの人たちが困惑しながらも、どこか期待を帯びた表情で私達を見ている。舞台役者にでもなった気分だ。
「私は……私では相応しくありません」
この一言を絞り出すのに、どれだけいろんな感情をかき集めただろうか。
テオドール様と会場に入ってからというもの、常に私にまとわりついていた視線。それは好意的というよりも好奇心、むしろ粗を見つけてやろうという感情の方が多かったのではないかと思えるほど。
立場は弁えていたつもりだったけれど、さすがに少しばかり疲れを感じたタイミングでテオドール様がこのような行動に出るとは考えもしなかった。
「家格のことなら問題ない。君は、隣国で伯爵令嬢としての責務を十分に果たしている」
「それは、ですが――」
「フォンティエールに来てからの行動も、何の問題もなかった。それは、我が家の使用人のほかに、当主である父の認めているところだ」
私から説明させないように言葉をわざと遮ったテオドール様は、おそらく周りの人々にも聞かせたいのだろう。私が、隣国とはいえ伯爵家の令嬢として及第点だったのだと。そして、それはこの国でも十分に通用するのだと。
ざわめきが、広がっていく。イングライト侯爵家の客人、隣国からの令嬢。今まではそのような噂で形作られていた私という存在が、テオドール様の発言をきっかけに色を変えていく。
「君の憂いをなくすことは、できているだろうか」
跪いたまま、私の手を請うような体勢を崩さないテオドール様。その仕草は芝居がかっているけれど、妙に似合っていて。
私は、お芝居の事を知らない。けれど、テオドール様が態度を変えないのだったら、私なりの解釈で舞台に上がってもいいだろう。
周りの何も知らない観客を喜ばせるような台詞に紛れさせるから、私が隠せなくなった感情を、どうか拾ってはくれないだろうか。
「私は、かわいげのない女性です」
「君は着飾るよりも、実務を選んだ。そうだろう?」
これは、アンティケードにいた時の話。伯爵家のためにと言いながらも、私の事を認めて欲しいという気持ちから手を動かし続けていた。かわいいとなんの惜しみもなく言われる存在と比べられる日々が嫌になって、役に立つという方面で称賛を求めていたあの頃の、私。
それを、実務を選んだという言葉に言い換えてくれたのは、優しさ。認めてもらえたという感情が沸き上がった胸を押さえて、次の言葉を紡ぐ。
「華やかな場に似合う服装も、会話を選ぶこともできません」
「会話の流行など、これからまた新しいものが生まれていく。それに、言っただろう。そのドレス、とてもよく似合っていると」
これは交流会と、フォンティエールに来てからの話。交流会は思い出しても苦笑いしか浮かべられないほどに、会話をすることが出来なかった。交流会、と銘打っているのに何ひとつ。その場でテオドール様の目に留まったから今があると言えるのだとしたら、結果としてはいい思い出だけれど。
人の注目が集まっている中で、ドレスについて何かを言われるとは思っていなかった。テオドール様から似合っていると言われた後に、近くの女性たちが静かに頷いているのが見えた。テオドール様のひいき目だけではなく、私に似合っているのだと思われていたのだったら、嬉しい。
「そのような女性が、テオドール様のこれからを隣で歩んでもよろしいのでしょうか」
「そんな君だから、私は隣にいて欲しいと望んでいる。これでは、答えにならないだろうか」
そしてこれは、この先の話だ。私の本音を混ぜた、問いかけ。答えに、戸惑うかと思っていた問いかけに、ひと呼吸も置くことなく返事が届く。
聞いてもらいたい、とテオドール様が言い出した時から、この舞台は始まっていたのだろう。
私が断らないと踏んだからこそテオドール様はこの場で宣言したのだろうと考えるのは、私の願望。
芝居かかった口調だけれど、私を見つめる瞳にふざけた雰囲気など微塵も感じられない。あるのは、ずっと真っすぐに見つめてくる真摯さだけ。交流会の時から知っていた。テオドール様は、冗談が得意ではなく無意味に人をからかうような真似などしないことを。人の噂を聞いたとしても、自分の目で見たその人の性格や考え方を尊重してくれるのだと。
「至らぬところの多い身ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしく。
……受け入れてくれて、ありがとう」
テオドール様の答えを聞いた瞬間に、周りからわあっと歓声が上がる。冷静で表情を崩さないと言われているテオドール様の笑顔を見たのだから、無理もないだろう。
それを知っているのはごくわずかの人で、その中に私が含まれているというのが少しだけ嬉しかったのだけれど。
自分の想いが伝わった直後にそんなことを考えてしまうのだから、私は自分が思っているよりも嫉妬、という感情が強いのかもしれない。もしくは、誰かに取られてしまうという焦りだろうか。
「君の引き立て役は上手く出来たみたいだね」
「この度は、大変なご配慮をいただきまして……」
「いいよ。構わないさ。向こうに静かな席を用意してあるから、こちらから抜けなさい。ここは任せて」
静かだった空間に、音楽と人のざわめきが戻ってくる。パーティーが始まった時よりも熱を帯びた空気は、おそらくテオドール様のあれこれに当てられたのだろう。
そのなかで主催者の男性がにこやかに声をかけてくれた。思いがけず皆の注目を集めてしまったが、これは主催の望むことではなかったはずだ。ゆっくりと頭を下げると、私以上にテオドール様が深く腰を折った。
示された先に、人目を引きつけない程度に早足で向かう。
入場のエスコートよりも近い距離から感じるテオドール様の温もりは、私以上のようだ。大切なものだと示すように優しく触れられた手が、熱い。
言われたとおりに用意されていた、静かな席。急ごしらえの感じはないから、おそらく事前に準備をしてあったのだろう。生垣で囲まれた空間には、パーティーの明かりがわずかに届く程度。柔らかな布のクッションが置かれたソファーは、夜露で湿ることなく優しい触り心地を伝えてくる。
視界の先に見えるように計算されているのだろう、噴水の音だけが静かに響く。夜の光に照らされた水の流れは、ここが誰にも見えない場所のような錯覚さえ抱く。
「急な話で、すまなかった」
「いえ、その……申し出は、大変嬉しく思います」
背もたれにかかっていたブランケットをそっと私に羽織らせてくれたテオドール様は、拳一つ分を空けてソファーに腰掛ける。手を伸ばせば簡単に相手に触れられる距離、今まではこれほどまでに詰めていなかった距離。
隣からの安心したようなため息が今まで以上に響いて、改めて距離の近さに顔が熱くなったのが分かった。
嬉しい、けれど同じくらい、もやっとしたものが胸に残る。婚約者を望んでくれたのだったら、伝えても構わないだろか。こんなこと、と言われてしまうのだったら、その後の言葉は飲み込もう。そう決めてから、私は口を開く。
「ひとつだけ、怒っていることがあります」
近くにいるからか、肩を縮こまらせたのがすぐに分かった。きっと気持ちを言葉にしても、頭ごなしに否定はされない。けれど、クローリー伯爵家でのお義母様やお父様の言動が、私の嫌な想像を止めてはくれない。
きっと大丈夫。この手が振り払われなかったら、最後まで言葉にする。まるでおまじないのように、テオドール様の手をそっと触った。
「大事なことを、このような場で、皆を前にして伝えられたことです」
「うっ……す、すまない。」
あまりにも簡単に、そして焦ったように頭を下げるから。私がおまじないのように願掛けをした気持ちなど、あっという間になくなってしまった。ソファーの上で重ねられた手は、振り払われていない。
むしろ、私の手を包み込むようなテオドール様は、体の向きさえ変えてこちらを見ている。
なんだか、雨に濡れた子犬を見ているような気持ちになってしまう。今だったら、しゅんと項垂れているテオドール様に、犬の耳の幻覚が見えるかもしれない。
「どうして、と聞いても?」
「その、世間では皆の前で婚約を宣言する舞台が人気だと聞いて……。だから君も気に入るだろうと、思ったんだが」
「流行に疎くて申し訳ありません。ですが、これからは私の意見も聞いてくださるでしょうか」
舞台、と聞いてなんだか妙に納得してしまった。芝居がかった口調に仕草、それから周りの招待客の何かを期待するような視線。あれは全て、どこかのお芝居の中の一幕で、きっとその後にはハッピーエンドが待っているのだろう。
私がその舞台を知らないとテオドール様は分かっていたかもしれないけれど、周りは知らない。これはきっと、舞台の筋書き通りではないだろうけれど。
「ああ。君の意見は最大限に尊重するつもりだ。リリアーナ」
「この場でその呼び方はずるいです、テオドール様」
「ああ。そうだな。だから君も僕をテオと呼んでくれないだろうか」
ずるいと私が口にしたら、テオドール様が笑う。先ほど見せた綺麗な笑顔ではなく、どこかいたずらが成功したような子供のような笑みを。
「はい、テオ様」
だから私は、自分の嬉しいという感情をめいっぱい詰め込んで、名前を呼ぶ。二人の小さな笑い声は、噴水の音に紛れていった。




