17.少しずつほどけていく
「テオドール様」
これは、イングライト侯爵家に来て数日の話。まだ家の中に慣れてもいないのに、テオドール様に案内された執務室で見かけた資料の並びが気になってしまって、夕食後に部屋を出た。
私の処理していた書類とは重要度も違うのは分かっているけれど、使いたい資料がパッと見ただけでもバラバラに置かれているのは、不便だろうなぁという気持ちが頭から離れなかった。それから少しずつ、時間を見ては整理をしているけれど、まだ手を入れられる箇所は残っている。
だから、今日も執務室にお邪魔しようと思っていたのに、部屋を出た瞬間にテオドール様と目が合った。
「リリアーナ嬢、こんな遅くになにを」
「いえ、その……少し書類の並びが気になりましたので、整理を」
「最近、妙に資料が分かりやすいと思ったが……だが、これほどまで根を詰めるものではない」
「ですが、置いてもらっているのですからこのくらいは」
夕食後、湯浴みも済ませてあとはもう寝るだけの時間だから、遅いと言われたらそうだろう。けれど、クローリー伯爵家ではこのくらいの時間なら起きていたし、領地で使える資料をまとめたりしていたから、何もしなくていいというのは、なんだか落ち着かない。
それに、名ばかりの貴族となった私を置いてくれているのだから、このくらいはしないと。役に立つと思ってもらえなかったら、どうして隣国へと渡ったのだと言われてしまう。
「私は、君を使用人にするために連れてきたのではない」
「申し訳、ございません」
水色の瞳が、わずかに細められる。少ない明りで照らされているテオドール様のお顔は端正さもあって、まるで造りこまれた彫刻のよう。感情の読めない視線をこれ以上浴びたくない、そう思ってとっさに頭を下げる。
あの家だったら、何を言われてもどんな視線を向けられようとも、感情が波立つことなどなかったのに。
「いや、その……」
手の感覚が薄い。指先まで冷えたのは、一時でもテオドール様の表情に恐怖を感じたからだろうか。失望、されてしまったのか。こんなかわいげもない、書類の整理だって満足にできない女を拾ったのだと。そう、思われてしまうのがとても怖くて、失礼だと分かっていても顔を上げることは出来なかった。
そんな思いを溶かしたのは、温度の戻った声で告げられた、ぶっきらぼうだったけれど優しい言葉だった。
「すまない。こちらこそ強い言い方だった。とにかく、早く部屋に戻って休め」
「……はい。失礼いたします」
それからだった。テオドール様から、夕食後のお誘いがあったのは。毎日ではないけれど、そこまで日を開けることない誘いは、全て執務室での書類の整理。
使いやすいように並べ直したくらいで大げさに感謝を伝えられるのはとてもくすぐったかったけれど、不思議と簡単に受け入れられた。それはきっと、テオドール様が本心から伝えてくれるのだと分かったからだろう。
この出来事からだったと思う。テオドール様との距離が縮まってきたように感じ始めたのは。
別の日。さすがにイングライト侯爵家の使用人の顔も覚え始めた頃。その日は、夢見が悪かった。
これほどまでにふかふかなベッドにいるのも、あたたかな日差しを受けて目を覚ますのも、全てが私の妄想なのだと突きつけられる夢を見た。
そんな寝起きだったから食べ物を受け付けられる気がしなくて、朝食は遠慮させてもらうよう、伝えてもらった。
けれど、体は正直で。しばらく食べていなくても大丈夫だったはずなのに、今ではきちんと食事を取らないと空腹を訴えるようになった体。
「リリアーナ様、どうかなさいましたか」
「いいえ、すみません。食事がおいしくて、嬉しくなってしまったんです」
「ありがとうございます。シェフも喜びます」
昼食の時間も終わり、もうすぐ夕食の準備を始めなければならないタイミングで食堂へ顔を出した私を、イングライト侯爵家の使用人の皆さんは喜んで迎えてくれた。
柔らかく茹でた野菜に、シンプルな味付け。見た目は豪華ではない。けれど、この時間まで食べなかった私の体調を気遣ってくれている、そう分かる調理をしてくれた。
口に運ぶ前に胸がいっぱいになって潤んでしまった目は、しっかりと使用人の一人に見つかってしまった。
決して食事に不満があるわけではない、そう言いたかったのは伝わっただろうか。空になったお皿を見て満足そうに笑ってくれたからきっと、伝わっているはずだ。
「リリアーナ嬢。君はまた……」
少しずつ、顔を繋ぐために舞い込んだ招待状に出席の答えを送り始めた頃。この国に対しての知識はある程度あったから、今は細かい慣習の違いを学んでいるところだ。
いろんな資料を集めてあるお部屋、自由に閲覧できるように鍵をかけていないから、時間が空くとここに来ることが多い。
つまり、テオドール様が私を見つけるのはこの部屋が多いという事だ。
「申し訳ございません。ですが、その……この国では女性も働けると聞きました。ですから」
「意識の高さは結構だが、まずは生活に慣れることが優先だ」
呆れたようなテオドール様は、小さく息を吐いた。誘われたお茶会に顔を出すようになってから、体調に違和感を覚えるタイミングが増えた。それはたぶん、慣れない環境に疲れたのだと思う。
ただお茶会と一言で表しても、その場に臨むには山のように覚えなければならない事柄がある。それを急に詰め込んだ私は、情けないことに微熱に悩まされる日が出て来てしまったのを、テオドール様はご存じなのだろう。
「君は、もう少し人に頼ることも覚えるべきだな。これは、私が片付けておこう」
言われなくても分かる。これは、戻って休めという意味だ。私が次の招待のために、と引っ張り出した領地の特産品の一覧は、テオドール様の手によって本棚に戻されてしまった。
いくら見つめていてもその手が再び本を持つことはないので、諦めて部屋に戻る。ああなった時のテオドール様は、私がどれだけ言葉を尽くしても絶対に首を縦に振ってくれないのは、すでに何度もやり取りしている。
やはりここは、テオドール様に心配をかけないように体力をつけるしかないだろうか。明日から屋敷の散歩の距離を増やそう。そう、密かに決心した。
「テオドール様、これは……」
「この国に来た時、荷物が少なかっただろう。女性には必要な物だ、どれを選んでも構わない」
珍しく、テオドール様から客間に来て欲しいと言われて向かってみたら。広い客間を埋め尽くしているのは女性用のドレスに、装飾品。そして後ろで控えている使用人たちの多さ。
用意してくれた馬車をすべて使うことなくこの国にやって来た私が屋敷の外に出始めたのを見かねて、準備してくれたのだろう。
けれど。
「私に、このようなかわいらしい装飾は似合いませんので」
視界を埋め尽くすドレスはかわいらしいと思うし、素敵なデザインだと手に取りたいものだってある。流行はまだ分からないけれど、何度かご招待いただいたお茶会ではドレスの話を振られることはなかったから、令嬢としては最低限のラインを守れているはずだ。
ロザリーだったら、喜んで試着をするのだろうな。久しぶりに思い出した義妹は、きっと想像通りの行動をするだろう。ただ、私にはそれが出来ないだけで。
「向こうではそうだったのかもしれないが、君は今、我が家の客人だ。相応しい装いは必要だと思わないか?」
そう言われてハッとした。私は、自分に似合わないからと理由をつけて華美なドレスを避けていたけれど、今はイングライト侯爵家の客人だという肩書がある。
無意識ではなく、意識的にドレスを避けていたのだから、これほどまでに良くしてくださっている方々の顔に泥を塗るような行為をしてしまっていた。
「……そうですね、申し訳ございません」
「あ、いや……謝らせたいわけでは……!
と、とにかくだ。欲しいと思ったものはどれでも、どれだけでも構わない。好きに手に取ったらいい」
うきうきとした様子の使用人の中で、一番いきいきと私を着せ替えたのはシンシアで。その後、イングライト侯爵家の使用人たちの手によって、彼女にも何着か普段の生活にも使えそうなドレスが準備されていた。
私が使わせてもらっている部屋にあるクローゼットがこの日だけで満杯になったのは、言うまでもないだろう。
「リリアーナ嬢。これはどう思う」
もはや、資料を見ていても執務室にいても、何も言われることのなくなった日。私は当たり前のようにテオドール様の隣の机に座り、同じ資料を読み込んでいる。
顔を見ることもなく私の前に滑り込んできた紙には、領地の特産品について、新しいアイデアが欲しいと要望が書かれていた。
取れ過ぎた野菜、そのまま売っているだけでは腐っていくし、値崩れも起こしてしまうからと何かに加工できないか試行錯誤をした覚えがある。もちろん、それを成功させたのは領民たちの力で、私はただアドバイスを送っただけにすぎないけれど。
同じかどうかは分からないし、役に立てるかも自身はないけれど、ひとつの方法としてだったら伝えてみてもいいのかもしれない。
「助かった。君に聞くと違う考えが出てきて助かっているよ」
「おそれいります」
「また相談させて欲しい」
書類を見ている時には無表情だったのに、私に向けてふんわりとした笑みを浮かべるテオドール様。屋敷の外では令嬢たちに絶賛されているテオドール様の笑顔、社交のために作ったわけではないその表情を、これほど間近で見てしまってもいいのだろうか。
「ねえ、シンシア」
「何でしょうか」
「私、どうしたらいいのかしら」
今までの、イングライト侯爵家に来てからのテオドール様との会話をふと、思い出していたら。
胸に小さく存在を主張する感情があることに気がついてしまった。
ずっと言われ続けたかわいげのないという言葉。私の中に深く根付いたと思っていたその言葉は、どうやら最近になって、もしかしたら抜けるのではないかという気持ちにさえなってきている。
「この家に来ることが出来て、お嬢様は明らかに変わりました。とても、良いことだと思います」
例えばこのように、髪を梳かす時間などなかったでしょう?
そう言いながらシンシアは、ゆっくりと手を動かしている。鏡に映る私は、確かにあの頃よりも肌つやが良くなった。お母様譲りの髪も、手入れが行き届いていると目に見えて分かるようになった。
これなら、かわいげがないと言われないだろうか、なんて答えのない問いを浮かべてしまうくらいの余裕が、出てくるようになった。
「ご自身のお気持ちを、素直に表現なさってみてはいかがでしょうか」
「でも……そんなことをして、呆れられないかしら」
「テオドール様でしたら、大丈夫です」
自信満々で私を励ますようなシンシアの言葉に、背中をしっかりと押されているような気がする。
素直に、というのが出来るかどうかは分からないけれど、ひとまず日々の感謝をきちんと言葉にしよう。ありがとうございますはいつも口にしているしテオドール様も受け取ってくれているけれど、それ以上に伝えられる言葉はあるのだろうか。
そう思いながら私は目を閉じた。




