71話 風は国境を越える
人口一万。
かつて貧困と病に苦しんでいた村は、今や巨大な自治都市へと変貌していた。
食料充足率二〇〇%超。
紡織産業。
農業革命。
教育制度。
治療制度。
物流網。
すべてが拡大を続けている。
そして今。
都市の中心にある議事堂では重要な会議が開かれていた。
長い楕円形の机。
そこには都市を支える人材達が集まっていた。
セリナ。
トミー。
ロバート。
エミリー。
マイケル。
エルナ。
ソフィア。
カタリナ。
ガイル。
リーン。
そして老侯爵エレノア・グランディア。
ケルナインの姿はない。
最初から呼ばれていない。
なぜならこの都市はもう彼が指示を出さなくても動くからだった。
会議の議長はセリナだった。
「始めます」
資料が配られる。
全員が目を通す。
最初に口を開いたのはセリナだった。
「ジョンウン王国の現状です」
空気が引き締まる。
ジョンウン王国。
都市の北東に存在する大国。
だが実態は崩壊寸前だった。
「重税」
「徴兵」
「食料不足」
「強制労働」
「粛清」
「公開処刑」
「密告制度」
資料を見たエミリーが眉をひそめる。
「ひでぇな」
セリナが頷く。
「亡命者の証言は一致しています」
「かなり深刻です」
次に発言したのはカタリナだった。
巨大な身体を椅子に預ける。
「国境警備は?」
「最近は明らかに緩くなってる」
「逃げる人間が増えすぎて抑えきれてない」
ソフィアも続く。
「向こうの兵士も痩せてた」
「戦う顔じゃなかったね」
元冒険者の二人は国境警備の任務にも参加している。
現場の情報は重かった。
エレノア侯爵が静かに口を開く。
「国家が崩壊するとき最初に失うのは信頼です」
「次に人材です」
「最後に税が取れなくなる」
老貴族の言葉には重みがあった。
全員が耳を傾ける。
「ジョンウン王国は今、人材流出の段階に入っています」
「つまり崩壊は始まっているのです」
静寂。
その言葉を受けてトミーが資料を叩く。
「実際に来てるからな」
「先月六百人」
「今月は千人超えるぞ」
狐獣人の商人は数字に強い。
物流担当だからこそ分かる。
「宿舎足りねぇ」
「服足りねぇ」
「仕事はある」
「人手も欲しい」
「けど受け入れ速度が限界だ」
ガイルが腕を組んだ。
「住宅建設班は増やしてる」
「石材も木材もある」
「だが職人が足りねぇ」
そこでリーンが手を挙げる。
「職人学校の卒業を早めます」
「補助人員を回せます」
エルフ薬師だった彼女も今では教師だった。
環境が人を育てる。
その象徴の一人だった。
マイケルも発言する。
「教師も増やします」
「教導課程を短縮します」
「基礎教育だけならすぐできます」
弱かった少年はもういない。
彼は三千人規模の教育組織を率いていた。
「読み書き」
「計算」
「魔力循環」
「生活技術」
「最低限なら二ヶ月です」
会議室の空気が変わる。
できない理由ではなく。
どうやるかを話している。
それがこの都市だった。
そして。
エルナが静かに手を挙げた。
全員の視線が向く。
「亡命者の子供達についてです」
声は小さい。
だが全員が耳を傾ける。
「最近増えています」
「親を失った子供も多いです」
資料が配られる。
数字が並んでいる。
孤児。
負傷者。
栄養失調。
全員の顔が曇った。
エルナは続ける。
「学校だけじゃ足りません」
「居場所が必要です」
「安心して眠れる場所が必要です」
「信頼できる大人が必要です」
誰も否定しなかった。
彼女は優しい。
だが甘くはない。
現実を見ている。
「孤児院を増設します」
「保護施設も作ります」
「教師と治癒師を常駐させます」
エルナの提案にマイケルが即座に頷いた。
「教師は出せます」
リーンも言う。
「治療班も出します」
トミーが帳簿を見ながら笑った。
「金はある」
「問題ねぇ」
都市は豊かになった。
だから人を助けられる。
かつて助けられた者達が。
今度は誰かを助ける。
それが教育だった。
そこでセリナが話を戻した。
「次の議題です」
地図が広げられる。
ジョンウン王国。
巨大な国。
その国境沿いに赤い印が並んでいる。
「情報戦を始めます」
静寂。
ミシェルが立ち上がる。
「風魔法放送です」
会議室がざわめく。
風属性魔法。
音声伝達。
広域拡散。
索敵部隊千名。
風魔法使い五百名。
技術的には可能だった。
ミシェルが説明する。
「事実だけを伝えます」
「煽りません」
「脅しません」
「真実だけです」
エレノア侯爵が微笑む。
「最も強い方法ですね」
誰も反論しなかった。
翌日。
国境地帯。
風属性魔法陣が展開される。
巨大だった。
何百人もの魔法使いが並ぶ。
魔力循環。
魔力操作。
呼吸を合わせる。
ミシェルが合図する。
風が集まる。
空へ昇る。
そして。
声が世界へ放たれた。
「ジョンウン王国の皆さんへ」
風が運ぶ。
山を越える。
谷を越える。
国境を越える。
「こちらには仕事があります」
「学校があります」
「治療院があります」
「食料があります」
「子供は学べます」
「努力は報われます」
「亡命者を受け入れています」
たったそれだけだった。
だが。
真実だった。
翌日。
亡命者が来た。
さらに翌日。
また来た。
一週間後。
数百人。
二週間後。
千人。
止まらない。
その中には農民もいた。
職人もいた。
教師もいた。
兵士もいた。
人材が流出していく。
ジョンウン王国は焦った。
王城。
国王ジョンウンは激怒した。
「止めろ!」
「捕まえろ!」
「処刑しろ!」
怒鳴る。
だが止まらない。
なぜなら。
人は恐怖だけでは生きられない。
希望を知った瞬間。
比較してしまう。
食べられる国。
学べる国。
治療できる国。
未来がある国。
その存在を知ってしまった。
そして。
都市ではエルナが働いていた。
孤児を抱きしめる。
傷を治す。
話を聞く。
一緒に食事をする。
一緒に笑う。
ある日。
亡命してきた少女が尋ねた。
「どうして助けてくれるの?」
エルナは少し考えた。
そして微笑む。
「ここではそれが当たり前だからです」
少女は泣いた。
何年も我慢していた涙だった。
その姿を見ながら。
エレノア侯爵は呟いた。
「なるほど」
「国家とは城ではない」
「人ですね」
誰も否定しなかった。
都市は強くなった。
軍隊も増えた。
教師も増えた。
職人も増えた。
だが本当に増えたものは別だった。
人が人を育てる環境。
それこそが最大の力だった。
そしてその頃。
ジョンウン王国では。
今日もまた。
誰かが国境へ向かっていた。
風に乗って届く声を頼りに。
希望を求めて。
ゆっくりと。
しかし確実に。
ジョンウン王国の崩壊は始まっていた。




