69話 金貨三万枚
人口一万人。
その数字はもはや誰も否定できなかった。
かつて盗賊に襲われるだけだった貧困村。
奴隷商に狙われ。
病に苦しみ。
飢えに怯え。
冬を越えられるかどうかだけを考えていた村。
その面影はもうどこにもない。
広大な農地。
果樹園。
紡織工房。
鍛冶工房。
学校。
治療院。
浴場。
住宅街。
巨大倉庫。
市場。
人口は一万人を突破した。
食料充足率は二百%以上。
小麦。
大麦。
果実。
根菜。
家畜。
全てが増え続けていた。
そして今。
都市の中心で新たな革命が始まろうとしていた。
麺である。
◇
都市中央市場。
昼時。
広場には長い列ができていた。
目当ては麺。
最近登場した新しい料理。
安い。
美味い。
腹に溜まる。
保存できる。
職人も。
農民も。
冒険者も。
兵士も。
皆が夢中になっていた。
◇
そんな市場へ大型商隊が入ってくる。
十台を超える豪華な馬車。
精鋭護衛。
商人達がざわついた。
「ヴァレリア商会だ」
「会頭が来たぞ」
「本物か」
道が自然と開く。
そして馬車から降りた。
燃えるような赤髪。
長身。
圧倒的な存在感。
成熟した美女。
マーガレット・ヴァレリア。
大陸有数の商会を率いる女傑だった。
◇
彼女は市場を眺める。
人。
人。
人。
一万人都市。
数字だけは報告を受けていた。
だが実際に見ると違う。
活気がある。
皆の顔に余裕がある。
商人の目には分かる。
金が回っている。
食料が足りている。
未来を信じている。
そんな顔だった。
◇
「面白いわね」
マーガレットは微笑む。
「本当に化けた」
◇
案内された先は麺屋だった。
店内は満席。
外には行列。
料理人達が忙しく働いている。
香りが漂う。
醤油。
味噌。
脂。
香辛料。
食欲を刺激する香り。
◇
席に着く。
運ばれてきた。
醤油麺。
透き通った琥珀色の汁。
細い麺。
焼いた肉。
刻み葱。
湯気が立つ。
◇
マーガレットは箸を取る。
麺を持ち上げる。
一口。
すする。
◇
止まった。
完全に止まった。
護衛も幹部も固まる。
会頭が固まるのは珍しい。
◇
もう一口。
さらに一口。
三口。
四口。
五口。
止まらない。
◇
やがて器を置いた。
静かに言う。
「嘘でしょう」
◇
誰も何も言えない。
◇
「これ……売れるわ」
◇
商人達が苦笑する。
そんなことは分かっている。
問題はどれだけ売れるかだ。
◇
マーガレットは即座に理解した。
これは料理ではない。
商品だ。
それも国家級の商品。
◇
保存できる。
軽い。
安い。
輸送できる。
大量生産できる。
兵糧になる。
冒険者食になる。
災害備蓄になる。
◇
つまり。
どこでも売れる。
◇
「トミーを呼んで」
即決だった。
◇
商業庁舎。
都市の経済を司る建物。
そこへトミーがやってくる。
狐獣人。
物流責任者。
商業責任者。
かつては調子のいい若者だった。
今では都市経済を支える男になっていた。
◇
「久しぶりですね」
「ええ」
マーガレットが微笑む。
「あなたに会いに来たわ」
◇
トミーは席に座る。
お互い笑顔。
だが。
商人同士である。
戦場はここだ。
◇
マーガレットは前置きを省いた。
「独占販売権が欲しい」
◇
部屋が静まる。
◇
「麺よ」
「全部欲しい」
◇
トミーは驚かない。
予想していた。
◇
「条件は?」
◇
マーガレットは即答した。
「金貨三万枚」
◇
全員が息を呑む。
金貨三万枚。
国家予算級。
普通の都市なら即決する額だった。
◇
しかし。
トミーは表情を変えない。
◇
「安いですね」
◇
今度はマーガレットが笑った。
「そう来ると思った」
◇
商人同士。
腹の探り合いが始まる。
◇
「この商品は十年売れる」
トミーが言う。
「二十年売れる」
「百年売れるかもしれません」
◇
誰も否定できない。
◇
「独占は無理です」
◇
トミーは続けた。
「ですが」
「優先販売権なら可能です」
◇
マーガレットが目を細める。
◇
「契約金は金貨三万枚」
「それは受ける」
「販売価格は商品ごとに個別契約」
「年間最低購入量を設定」
「物流網は共同投資」
「販路開拓はヴァレリア商会担当」
◇
沈黙。
◇
完璧だった。
◇
都市は利益を得る。
商会も利益を得る。
独占はない。
しかし先行利益はある。
◇
マーガレットは笑う。
本当に楽しそうに笑った。
◇
「成長したわね」
◇
トミーも笑った。
◇
「環境が良かったので」
◇
その言葉に。
マーガレットは都市を見た。
職人。
教師。
農民。
兵士。
商人。
皆が育っている。
◇
かつての貧困村は消えた。
そこにあったのは。
人材が人材を育てる都市。
◇
そしてその日。
金貨三万枚の契約が締結された。
◇
市場は歓喜した。
工房は増産を始める。
物流は拡張される。
倉庫は新設される。
◇
麺はただの料理ではなくなった。
都市を支える産業となった。
そして。
一万人都市はさらに大きく成長していくのだった。




