191.5話 上下水道整備
新領土各地で水が流れ始めてから一か月。
変化は誰の目にも明らかだった。
街が変わっている。
人が変わっている。
そして何より、空気そのものが変わっていた。
かつて旧キンペイ帝国の支配下にあった地域では、不衛生な環境が当たり前だった。
雨が降れば泥が溢れる。
井戸は汚染される。
病人が出れば周囲に広がる。
排泄物は街の外へ捨てられるだけ。
夏になれば悪臭が漂う。
冬になれば病が蔓延する。
それが常識だった。
だからこそ、新領土の人々は目の前の光景を信じられなかった。
朝。
一人の老人が蛇口をひねる。
透き通った水が流れ出る。
老人は何度も何度も水を見つめた。
そして静かに笑った。
「昔はな……」
隣にいた孫が首を傾げる。
「どうしたのおじいちゃん?」
老人は少し考えた。
説明が難しかった。
この子は知らないからだ。
飢えを。
貧困を。
病を。
「昔は水を飲むのも命がけだったんだ」
孫は驚いた顔をした。
信じられないという顔だった。
それが老人には嬉しかった。
理解できないのだ。
それほど環境が変わった。
それほど世界が変わった。
その頃。
地下ではさらに大規模な工事が進んでいた。
下水道建設である。
上水道だけでは不十分だった。
綺麗な水を供給しても、汚水を処理しなければ病は再び広がる。
セリナはそのことを理解していた。
だから最初から上下水道を同時に整備していた。
巨大な地下空間。
土属性教師団が大地を掘り進めていく。
何万人。
何十万人。
何百万人。
いや。
今や数億人規模である。
掘削速度は常識を超えていた。
土属性魔法。
石属性魔法。
重力魔法。
地震属性。
それらを組み合わせながら巨大排水路が形成される。
地下都市と呼べる規模だった。
「排水路接続完了」
「第七処理施設接続完了」
「第十二区域問題なし」
報告が飛び交う。
現場に混乱はない。
怒号もない。
教育された教師たちが現場を管理しているからだった。
環境が人を育てる。
それは工事現場にも現れていた。
さらにその先。
巨大な汚水処理施設が建設されていた。
水属性教師団。
光属性教師団。
浄化特化部隊。
全てが連携する。
汚水が流れ込む。
浄化魔法が発動する。
ピュリフィケーション。
ピュリファイ。
光が広がる。
汚れが消える。
病原菌が消える。
有害物質が消える。
再利用可能な水へと変わる。
それはもはや魔法文明だった。
しかし誰も特別だとは思っていない。
教育された者にとっては当たり前だからだ。
午後。
医療統括本部。
マイケルが資料を確認していた。
周囲には治癒師たちが集まっている。
数字が並ぶ。
感染症。
激減。
腸疾患。
激減。
寄生虫。
激減。
死亡率。
激減。
誰も言葉を失った。
あまりにも変化が大きかった。
マイケルは静かに言う。
「予想以上です」
隣の治癒師が頷いた。
「病人そのものが減っています」
「治療する患者が減っています」
「医療費も減っています」
「労働力も増えています」
良いことしかなかった。
上水道。
下水道。
たったそれだけで世界は変わる。
マイケルは昔を思い出した。
泣き虫だった頃。
病で倒れる人を見ても何もできなかった頃。
助けたいのに助けられなかった頃。
あの頃の自分に見せてやりたいと思った。
世界は変えられるのだと。
人は育つのだと。
夕方。
エルナは孤児院を訪れていた。
子供たちが走り回っている。
元気だった。
顔色が良い。
痩せていない。
病気もない。
笑顔だった。
「先生!」
「見て!」
子供たちが手を振る。
エルナは微笑む。
昔なら考えられない光景だった。
孤児院には病人が溢れていた。
栄養不足だった。
感染症も多かった。
今は違う。
食料がある。
水がある。
医療がある。
教育がある。
子供たちには未来がある。
エルナは思った。
環境とは恐ろしい。
そして素晴らしい。
良い環境は人を育てる。
悪い環境は人を壊す。
それだけの話だった。
夜。
セリナは新領都を見下ろしていた。
街の明かりが広がる。
道路が整備されている。
住宅が並んでいる。
学校がある。
病院がある。
工房がある。
市場がある。
そして上下水道が機能している。
街が生きていた。
その隣にエミリーが立つ。
「順調ね」
「ええ」
セリナは頷く。
エミリーは笑った。
「昔を知ってると信じられないわ」
狼獣人の少女だった頃。
村を守ろうとしていた。
必死だった。
弱かった。
貧しかった。
未来が見えなかった。
それでも諦めなかった。
今は将軍だった。
数千万。
数億。
人々を守る立場になっている。
人は育つ。
環境があれば。
教育があれば。
仲間がいれば。
それを彼女自身が証明していた。
街では新しく生まれた子供たちが眠っている。
彼らは盗賊を知らない。
奴隷商を知らない。
飢えを知らない。
病を知らない。
当たり前に学校へ行く。
当たり前に水を飲む。
当たり前に風呂へ入る。
当たり前に学ぶ。
その当たり前を作るために、多くの人が努力してきた。
旅人がいた。
教師がいた。
職人がいた。
農民がいた。
治癒師がいた。
そして育った人々が、さらに次の世代を育てている。
アルカディア連邦はもう誰か一人の国ではない。
人材の国だった。
教育の国だった。
自律した人々の国だった。
夜風が吹く。
新領土の灯りが地平線まで続いている。
その光景を見ながらセリナは静かに呟いた。
「環境が人を育てる」
それは理想論ではなかった。
証明された事実だった。
かつて盗賊に怯えていた貧困村。
その子供たちが教師となり。
職人となり。
治癒師となり。
指導者となり。
国家を支えている。
上下水道の完成は単なるインフラ整備ではない。
次の世代への贈り物だった。
そして新領土では既に次の計画が動き始めていた。
街道建設。
物流網整備。
新都市建設。
成長は止まらない。
人材が育ち続ける限り。
アルカディア連邦は前へ進み続けるのだから。




