175話 ブーチン帝国崩壊開始
春。
大陸中央部。
セレンスキー王国の農地では黄金色の穂が風に揺れていた。
見渡す限りの畑。
整備された灌漑水路。
土属性魔法によって改良された農地。
水属性魔法による安定供給。
農業教師達による徹底した教育。
そして。
農民達自身が育てた次世代の農民。
収穫量は戦前の十倍を超えていた。
巨大な穀物倉庫が次々と満杯になっていく。
荷車が並ぶ。
物流担当達が走る。
トミーが育てた物流教師達が各地の在庫を管理していた。
「北部倉庫、八十五%」
「南部倉庫、九十二%」
「中央倉庫、満杯です」
報告が飛ぶ。
誰も慌てない。
余裕があるからだ。
食料充足率は既に一五〇〇%を超えていた。
飢餓とは無縁の世界。
子供達は笑う。
老人達も笑う。
市場には商品が並ぶ。
誰もが明日を信じられる。
その光景を見ながらエレノア侯爵は静かに呟いた。
「本当に復活したのですね……」
老貴族として長い人生を歩いてきた。
戦争も見た。
飢餓も見た。
病も見た。
だが。
ここまで急速に立ち直った国家は見たことがない。
その時だった。
王宮に一通の緊急報告が届く。
届けた伝令兵の顔色は青かった。
「ブーチン帝国より報告です!」
会議室が静まる。
王が資料を受け取った。
ページを開く。
そして。
沈黙した。
財務大臣が訊ねる。
「陛下?」
王は静かに資料を机へ置いた。
「数が異常だ」
会議室に緊張が走る。
王は報告書を読み上げた。
「帝国内の餓死者推定六百万人」
誰も声を出せなかった。
六百万人。
国家規模の災害である。
さらに続く。
「軍内部の餓死者百五十万人」
「行政官僚の餓死者三十万人以上」
「地方統治機構崩壊」
「徴税不能地域増加」
「反乱発生」
「暴動発生」
「地方軍離反」
会議室が凍り付く。
一人の将軍が呟いた。
「戦争どころではありませんな……」
その通りだった。
国家維持そのものが困難になっている。
一方。
ブーチン帝国帝都。
かつて世界を震え上がらせた巨大帝国。
その中心部。
皇帝宮殿。
重臣達は沈黙していた。
皇帝ブーチンの顔色は土のように悪い。
机の上には山のような報告書。
全て悪い知らせだった。
飢餓。
暴動。
離反。
反乱。
餓死。
餓死。
餓死。
その文字ばかりが並んでいる。
皇帝は叫んだ。
「なぜだ!」
机を叩く。
書類が飛ぶ。
誰も答えられない。
皇帝は再び叫んだ。
「なぜ滅びない!」
重臣達が顔を見合わせる。
皇帝の視線はセレンスキー王国の地図へ向いていた。
あれほど攻撃した。
侵略した。
破壊した。
燃やした。
奪った。
なのに。
なぜ滅びない。
なぜ復活した。
なぜ強くなる。
理解できなかった。
財務長官が震えながら答える。
「陛下……」
「我々は農地を焼きました」
「街を壊しました」
「倉庫も破壊しました」
「普通なら国家は滅びます」
「ですが……」
言葉が止まる。
皇帝が睨む。
「言え」
財務長官は唾を飲み込んだ。
「人が残っていたのです」
沈黙。
重い沈黙だった。
それが答えだった。
農地は再生できる。
建物も再建できる。
道路も直せる。
倉庫も建てられる。
だが。
人材を失えば終わる。
セレンスキー王国は人材を守った。
教師を守った。
教育を守った。
だから復活した。
逆に。
ブーチン帝国は違った。
教育しなかった。
考えさせなかった。
育てなかった。
命令だけだった。
だから崩れた。
皇帝は理解できない。
長年。
恐怖で支配してきた。
武力で支配してきた。
それが正しいと信じてきた。
しかし現実は違った。
地方都市。
食料倉庫前。
数万人が集まっていた。
飢えた民衆だった。
子供を抱えた母親。
痩せ細った老人。
怪我を負った兵士。
全員が食料を求めている。
だが。
倉庫は空だった。
誰かが叫ぶ。
「食わせろ!」
別の誰かも叫ぶ。
「子供が死んだ!」
「家族が死んだ!」
怒りが広がる。
兵士達も飢えている。
もはや統制など存在しない。
暴動が始まった。
倉庫が焼かれる。
役所が焼かれる。
徴税官が逃げ出す。
兵士達も武器を捨てる。
帝国各地で同じことが起きていた。
南部。
東部。
西部。
北部。
反乱。
離反。
暴動。
その全てが連鎖していく。
地方総督達は皇帝の命令を無視し始めた。
理由は簡単だった。
中央が何も送ってこない。
食料もない。
兵もない。
金もない。
命令だけが届く。
そんなものに従う意味がない。
地方軍は自分達の土地を守り始めた。
帝国という枠組みが崩れ始めていた。
その頃。
セレンスキー王国。
学校。
マイケルは新任教師達へ講義していた。
黒板には大きく文字が書かれている。
「環境が人を育てる」
教師達は真剣に聞いている。
マイケルは静かに語る。
「昔の私は弱かった」
「自信もなかった」
「失敗ばかりだった」
教室は静かだった。
誰もが知っている。
今の彼が偉大な教師だからだ。
「でも環境が変わった」
「教えてくれる人がいた」
「失敗しても学べた」
「だから成長できた」
教師達は頷く。
その言葉を自分達も体験している。
「皆さんも同じです」
「次は皆さんが人を育てる番です」
教室が拍手に包まれた。
そして。
その教育は止まらない。
教師が教師を育てる。
育った教師がさらに教師を育てる。
無限に近い連鎖だった。
高台。
ケルナインは遠くの空を見ていた。
風が吹く。
エミリーが隣へ来る。
「見えてるのか?」
ケルナインは頷く。
「崩れ始めた」
短い言葉だった。
エミリーも理解する。
ブーチン帝国。
巨大だった。
強大だった。
恐ろしかった。
しかし。
崩壊は始まる時は一瞬だ。
人が国家を支える。
その人がいなくなれば終わる。
軍があっても。
金があっても。
土地があっても。
意味はない。
人材が国家。
その結論が現実になっていた。
エミリーは王都を見た。
学校がある。
治療院がある。
市場がある。
農地がある。
子供達が笑っている。
未来がある。
「勝ったんだな」
ケルナインは首を振った。
「違う」
「育っただけだ」
その答えにエミリーは笑った。
確かにその通りだった。
誰かが救ったわけではない。
誰かが支配したわけでもない。
人々が育った。
だから強くなった。
それだけだった。
夕暮れ。
セレンスキー王国の灯りが広がる。
一方で。
ブーチン帝国では炎が広がっていた。
王都。
地方都市。
駐屯地。
役所。
各地で反乱軍の旗が上がる。
帝国崩壊。
その始まりだった。
そして歴史は証明する。
国家を滅ぼすのは敵軍ではない。
人材を軽視した国家自身であることを。
環境が人を育てる。
その真実が。
大陸全土へ示されようとしていた。




