165話:マーガレット分析
アルカディア中央議会。
静寂が広がっていた。
セリナが国家構造を分析した。
トミーが経済を分析した。
そして今。
最後の分析が始まろうとしていた。
会議室中央。
赤い髪を揺らしながら一人の女性が立ち上がる。
マーガレット・ヴァレリア。
ヴァレリア商会会頭。
アルカディア最大商会の代表。
九億人国家の金融と商業を支える女だった。
彼女は巨大な地図を見渡した。
ブーチン帝国。
世界最大の国土。
巨大な軍隊。
膨大な人口。
長い歴史。
かつて誰もが恐れた超大国。
しかし。
マーガレットは微笑んだ。
「皆さん」
「帝国はもう戦争で負ける段階ではありません」
会議室が静まり返る。
セレンスキー王国使者も息を呑む。
マーガレットは続けた。
「もっと危険な段階です」
空中に巨大な数字が浮かび上がる。
帝国通貨。
ブーチン金貨。
価値推移。
会議室からざわめきが起きた。
下がっている。
毎年。
毎月。
毎週。
価値が落ちていた。
エレノアが眉をひそめる。
「これは……」
マーガレットは頷く。
「信用です」
その一言は重かった。
トミーが腕を組む。
「通貨か」
「そうよ」
マーガレットは笑う。
「通貨は金属じゃない」
「紙でもない」
「信用なの」
会議室が静まる。
「この金貨で明日も買い物ができる」
「この銀貨で来年も商売ができる」
「その信頼が通貨の価値なのよ」
そして。
空中に新しい数字が映る。
帝国通貨発行量。
全員が言葉を失った。
異常だった。
急増。
急増。
急増。
急増。
止まらない。
ロバートが顔をしかめる。
「増やしすぎか」
「その通り」
マーガレットは即答した。
「戦争には金がかかる」
「税収は減る」
「商業も縮小する」
「だから通貨を刷る」
彼女は肩をすくめた。
「愚かな為政者が必ずやることね」
空中に次の数字。
食料価格。
武器価格。
衣服価格。
薬価格。
全て急上昇。
セレンスキー王国使者が震える。
「同じ現象だ……」
マーガレットは頷く。
「そう」
「金の価値が落ちる」
「だから物の値段が上がる」
「物価高騰ね」
会議室に重苦しい空気が流れた。
帝国は今。
戦争だけで苦しんでいるのではない。
自らの経済政策で首を絞めていた。
セリナが補足する。
「教育率の低さもあります」
「金融を理解する人材が少ない」
「行政官も商人も不足しています」
マーガレットは指を鳴らした。
巨大な表が現れる。
識字率。
教育率。
商業教育率。
全て低い。
アルカディアとは比較にならなかった。
教師七億五千万人以上。
教導スキル覚醒者七億人。
教育国家。
その差が現れていた。
マーガレットは静かに言う。
「通貨を守るのは軍隊じゃない」
「教育よ」
エレノアが目を見開く。
その発想は新しかった。
しかし。
説明を聞けば当然だった。
数字を理解できる。
契約を読める。
会計ができる。
詐欺を見抜ける。
だから信用が生まれる。
だから経済が回る。
だから通貨が強くなる。
全て繋がっていた。
トミーが笑った。
「結局そこに戻るのか」
「当然でしょ」
マーガレットも笑う。
「教育は全部に繋がる」
会議室が頷く。
農業。
物流。
医療。
行政。
商業。
そして金融。
全て教育だった。
マーガレットは新しい資料を映した。
商人移住数。
帝国からの流出。
年々増加。
急激な増加。
爆発的増加。
行き先。
アルカディア。
会議室からざわめきが起きた。
「こんなに……」
セレンスキー使者が呟く。
マーガレットは頷く。
「商人は嘘をつかない」
「数字を見る」
「利益を見る」
「安全を見る」
「未来を見る」
彼女は地図を指差した。
帝国。
そしてアルカディア。
「どちらで商売したい?」
誰も答えない。
答えは明白だった。
治安が良い。
物流が強い。
教育水準が高い。
人口九億人。
購買力が高い。
市場が巨大。
商人が集まらない理由がない。
マーガレットは笑う。
「人は強い国に集まるんじゃない」
「儲かる国に集まるの」
トミーが吹き出した。
「身も蓋もねぇな」
「真実よ」
会議室に笑いが起きる。
しかし。
その内容は重かった。
商人は感情で動かない。
利益で動く。
だから市場は正直だった。
マーガレットはさらに続けた。
「そして今」
「帝国で起きている最も危険な現象を説明するわ」
会議室が再び静まる。
空中に映し出される数字。
預金引き出し率。
金貨交換率。
金属保有率。
全て急上昇。
セリナが小さく呟く。
「始まっているのですね」
マーガレットが頷く。
「ええ」
「信用崩壊よ」
その瞬間。
空気が凍った。
通貨信用崩壊。
国家にとって最悪級の災害だった。
「民衆は気付いている」
「金貨が弱くなっている」
「価値が落ちている」
「だから使いたがらない」
「紙切れを信用しない」
「現物を欲しがる」
食料。
塩。
布。
薬。
鉄。
木材。
全て現物だった。
トミーが腕を組む。
「金が金じゃなくなるのか」
「そう」
マーガレットは頷いた。
「信用を失った通貨はただの金属よ」
会議室は静まり返った。
巨大帝国。
世界最大の国土。
巨大軍隊。
巨大人口。
それらがあっても。
信用は守れない。
マーガレットは最後の資料を映した。
アルカディア信用指数。
上昇。
上昇。
上昇。
上昇。
最高値更新。
そして帝国。
下落。
下落。
下落。
下落。
底が見えない。
誰も言葉を発しない。
現実が残酷すぎた。
マーガレットは静かに言った。
「国家は信用でできている」
「民衆が信じる」
「商人が信じる」
「職人が信じる」
「教師が信じる」
「治癒師が信じる」
「その積み重ねが国家になる」
エレノアが目を閉じた。
若い頃。
理想を語った。
民を守ろうとした。
笑われた。
否定された。
しかし。
今。
その理想が目の前にあった。
アルカディア。
教育国家。
商業国家。
医療国家。
人材国家。
マーガレットは最後に言った。
「帝国はまだ倒れていない」
「でも」
「信用は崩れ始めている」
「国家が死ぬ時」
「最初に壊れるのは城壁じゃない」
「通貨よ」
会議室は静まり返った。
窓の外には巨大都市。
工房が動く。
学校が動く。
病院が動く。
農場が動く。
市場が動く。
人が学び。
人が働き。
人が育つ。
環境が人を育てる。
その理念が九億人を支えていた。
そして今。
ブーチン帝国最大の敵は軍隊ではない。
飢餓でもない。
反乱でもない。
民衆が失い始めた信用そのものだった。
マーガレットは資料を閉じた。
「さて」
「次はどれだけ早く崩れるかを見ましょうか」
その言葉に。
会議室の全員が静かに頷いた。




