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72話 そんなによかった?

 じわじわと広がる痺れと、右腕にかかる重みで目が覚めた。


 体に何かがやけに密着していて、身動きが取れない。……胸のあたりには柔らかいものが押し当てられている。


 窓の外はうっすら夜が明けている程度だ。まだ朝の四時台だろう。


「……えっ」


 目を疑った。


 麗奈が俺の腕を枕にして、思いっきり体に抱きついて眠っている。寝る前は姫奈だったはずなんだが……俺、いつのまに腕枕なんかしたんだ?


 とにかくもう腕が限界だ。感覚がほぼない。


 麗奈を起こさないよう、そっと腕を引き抜く。……痺れすぎて痛い。一体いつからこうしてたんだ。


 ────っ!?


 少し身を引いた瞬間、胸元の深い谷間が至近距離で目に入った。薄手の黒いネグリジェが、そのふくらみをかろうじて隠している。


 丈が付け根ギリギリまでしかない上に、抱き枕のように足まで絡めてきているせいで、太ももが丸出しになっている。というか、あの布面積が極小の紫の紐パンツまで見えてしまっている。


 ……これはまずい。目を覚ます前に離れないと。


 そう思って顔を上げると、隣の布団では姫奈が静かに寝息を立てていた。背中には姉さんが張り付いている気配もする。


 つまり、ここは俺が元々いた布団だ。寝惚けたのか何なのか知らないが、麗奈がこっちに来たということだ。


 よし、責任は俺にはないぞ。過失割合は悪くても2(俺):8(麗奈)だろう。それ以上だったら出るところに出るしかない。


 念のため頭の中で裁判シミュレーションを終えてから、抜け出そうと体をずらす。


 その瞬間、麗奈が俺の胸元にすりすりと頬を寄せてきた。


「……」


 思わずピタリと動きを止める。


 ぎゅっと、俺の背中に回された麗奈の腕に力がこもる。薄い布地越しに、胸の柔らかな感触が伝わってくる。


 ……とりあえず、もうちょっとこのままでいいか。俺のせいじゃないんだ。うん。起こすのも悪いしな。


 脱出を取り止め、再びシーツに体を沈める。


「ん……」


 麗奈が小さく眉を寄せ、身じろぎした。……そろそろ起きるぞ、これ。大丈夫か。


 やがて、うっすらと瞼が開く。寝惚けたような視線が、ゆっくりと下から上へ移動してくる。


「「…………」」


 麗奈の目が、これ以上ないほど見開かれた。みるみるうちに顔が真っ赤に染まっていく。


「おはよう」

「~~っ!」


 声にならない悲鳴を上げ、麗奈ががばっと勢いよく起き上がる。慌ててタオルケットを引き寄せ、必死に胸元を隠す。


「……お、おはよ……じゃなくて! 違うの! 私っ、寝相が悪くて……! 今日はいつもより転がっちゃったみたい!」


 なるほど。こいつはベッドで寝てはいけないタイプの人だ。……しかし、転がったにしては、姫奈を飛び越えてきてるんだが。どうやってここまで来たんだ?


 姫奈も隣の布団に移動しているし、寝相って遺伝するのか。


 そんなことを考えていると、いたたまれなくなったのか、麗奈は真っ赤な顔のまま部屋を飛び出していった。



※※※



 母さんが出勤していくのを見送った後、残った俺たち四人は揃って朝食を食べ始める。


 食卓に並んでいるのは、こんがり焼き目のついたトーストにとろけるチーズ、ハム、半熟の目玉焼きを乗せたクロックマダムとかいう料理だ。サラダとコンソメスープも添えられている。


 ……だが、いつもならホテルの朝食みたいに綺麗に盛り付けられている麗奈の料理が、今日に限ってやけに不格好だ。


 トーストの端はわずかに焦げ目が濃く、上に乗っている目玉焼きの黄身が潰れて、皿の端までだらしなく流れている。


 とりあえず、一口食べてみる。


「……美味い」


 よかった。味はいつも通りだ。


「……そう」


 俺と隣に座る麗奈の間には、なんとも気まずい空気が漂っている。


 麗奈は顔を赤くしたまま、手元から視線を上げようとしない。トーストの上の目玉焼きにフォークを突き刺し、溢れた黄身をパンに絡めながら、ちびちびと口へ運んでいる。


 すでに彼女はTシャツとハーフパンツに着替えているが、どうしてもあのネグリジェ姿が脳裏をちらつく。


「……あの、何かあったんですか?」


 俺たちの様子を見かねてか、向かい側の姫奈が尋ねてきた。


「……別に、何もないわ」


 サラダをつつきながら、俺を恨めしそうに睨んでくる。……何だよ。法廷で争うなら勝つ自信はあるぞ。


「もしかして喧嘩ですか? お姉ちゃん、誠心誠意土下座でもすれば歩君も許してくれますって。何なら一緒に謝ってあげますから」

「違うわよ」


 事情を聞いてもいないのに麗奈が悪いと決めつけるとは、さてはこの妹、賢いな。


 姫奈がちらっと窺うようにこちらに視線を移すが、俺は小さく首を横に振る。なんでああなったのか俺にもよくわかっていない。


 すると、向かいでぼんやりとトーストをかじっていた姉さんが口を開いた。


「麗奈、そんなに歩の腕枕はよかった?」


 ぶほっ、と麗奈が激しくむせ返る。


「げほっ、ごほっ……! なっ、何を……!」


 麗奈はグラスのお茶を一気に飲んで、ふうと息をついた。


「腕枕?」


 姉さんの隣に座る姫奈が、きょとんとしながら麗奈を見る。


「……そういえば、私、いつのまにか隣の布団に移動してたんですけど、まさかお姉ちゃん──」


 姫奈がジト目を麗奈に向けた。


「あんた、ものすごく寝相が悪かったわよ。気を付けなさい」

「……はい」


 姫奈はしょんぼりしながらコンソメスープをすすり始めた。



※※※



 朝食を食べ終えた俺は、リビングのソファに深く背を預け、スマホの英単語アプリを起動する。


 テレビの前では、姫奈が「昨日の続きをやります!」と鼻歌交じりにRPGを始めている。


 そこへ、姉さんのおかわりを作り終えた麗奈もやってきた。俺の隣にごろんと横になり、太ももに頭を乗せてくる。……いつも通りだ。機嫌は直ったのかな。


 気にせずアプリを続けていると、なぜか麗奈は太ももの上で顔の向きを変えたり、身じろぎを繰り返したりしている。


「どうかしたか?」

「うーん……ちょっと頭撫でて」


 仕方なく片手で彼女の頭を撫で始める。


 麗奈が耳を赤く染め、そっぽを向いて動かなくなった。……と思いきや、何が物足りないのか、またそわそわと動き始める。こいつ、さっきから落ち着きがないぞ。


 やがて、むくりと上半身を起こし、不満そうに俺を見つめてきた。


「ねえ……」

「ん?」

「……もうちょっと、だらけた方がいいんじゃない?」


 またか。なんか昨日と同じようなことを言い出した。


「俺は大丈夫だから。お前は好きなようにしてなよ」

「いや、そうじゃなくて……」

「何? 普通にゆっくりしてるけど」

「……まだくつろぎ具合がちょっと足りない気がするわ。たとえばその肘置きを枕にして、横になるのはどうかしら?」

「なんでだよ」


 いつにも増して意味が分からない。


「いいから! たまにはだらけなさいって!」


 麗奈は強引に俺の肩を押し、無理やりソファへ寝かせようとしてくる。なんで俺をだらけさせるのにこんなに必死なんだ。


「はいはい、わかったって」


 これ以上逆らうのも面倒だ。俺はソファの肘置きに頭を乗せて横たわった。


 こいつが何をしたいのかさっぱりわからないが……まあ俺がこうしていれば満足するんだろう。


 スマホの画面に視線を戻す。


 麗奈は少しの間ためらうようにこっちを見ていたが、やがてもぞもぞと俺の隣に体を潜り込ませ、腕に頭を乗せてきた。……え、どういうこと?


「……何やってるんだ?」


 麗奈は俺の胸に顔を埋め、背中に腕を回してくる。


「ちょっと、マイブームで……」


 そうか。マイブームなら仕方ない。こいつの意味がわからない行動には慣れている。


「……」


 ……いや、ちょっと待て。柔らかいものがシャツ越しに押し付けられてるんだが……これは対象外だ。


 俺は一旦目を閉じ、心の中で集中集中と念じてから、アプリを再開した。


「ついにお姉ちゃんがこうなっちゃいましたか……」


 姫奈が俺たちに視線を移し、呆れたようにため息をつく。


「これ、どうしたらいいんだ?」

「そのまま甘やかしてあげてください。機嫌を直さないと、料理の味にまで影響が出かねないので」


 なるほど。それは大変だ。


 俺は彼女を甘やかすべく、再び頭を撫でてやる。


「……」


 腕枕の中で、麗奈がさらに耳を赤くして俺の胸元に顔を埋めてくる。


 ……これは、ちょっと色々きついぞ。


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