70話 お風呂上がり
麗奈が作ってくれた夕飯を食べ終え、少し落ち着いた頃。
姉さんを腕に抱えながら英単語アプリを進める俺の隣では、母さんと姫奈が楽しそうにお喋りをしていた。
「へー。姫奈ちゃん、友達と交換日記してるんだ」
「はいっ。一番仲のいい蘭ちゃんって子と……」
母さんと一緒にお風呂に入ってきたばかりで、さっきから姫奈はずっと嬉しそうだ。
「私もやったことあるなー。好きな人のことを書いたりしない?」
「蘭ちゃんは割とミーハーなので、あの人がカッコいいとか、あのアイドルが好きとか書いてますね。私は……この前歩君にラブレターを書いたんですけど、振られちゃったんで」
「まあ、ふふ。歩は麗奈ちゃんの彼氏だから仕方ないね」
「そうですね。えへへ」
そこ、もっと突っ込まないのか。
母さんは何事もなかったかのように話題を変える。
「えーっと、姫奈ちゃんは、何の教科が一番好き?」
「普通の授業以外なら……体育とか音楽とか家庭科とか、けっこう何でも好きです。この前の調理実習も楽しかったですよ」
「へえ、何を作ったの?」
「ほうれん草のおひたしと、ゆで野菜のサラダと……ドレッシングも作ったんですけど、めちゃくちゃすっぱくて……なかなかお姉ちゃんみたいに上手くできないですね」
「姫奈ちゃんもそのうち上手くなるわよ。今度一緒に料理でもする? 私がお休みのときにでも」
「はい! したいです!」
「じゃあ何作ろっか?」
……なんか、実の親子以上に仲良し親子に見えるな。
そんな二人の声を聞きながら英単語アプリを続けていると、客間へ行っていた麗奈が戻ってきた。
「ねえ歩、お風呂入るんだけど、着替え貸してくれない?」
「あぁ、Tシャツでいいか?」
「うん」
「じゃあ持ってくるよ」
立ち上がろうとすると、俺の胸にくっついていた姉さんが顔を上げる。
「私のネグリジェを貸そうか?」
「お姉さんのはエロいので大丈夫です」
「わかった。準備しておくね」
「断ったんですよ!」
……強引だな、この姉。
「普通の可愛いやつもあるから」
「……本当ですか?」
「うん。Tシャツだと可愛くないでしょ? ネグリジェの方が可愛いよ」
「うーん……」
麗奈は俺の方をちらちらと見ながら、なぜか真剣に悩んでいる。
「……わかりました。じゃあお願いします」
「後で脱衣所に持って行くから、お風呂入ってて」
麗奈は疑いの目を姉さんに向けながらも、浴室へと向かった。
姉さんも起き上がり、麗奈の着替えを取りにリビングを出て行く。あの人、普通の可愛いネグリジェなんて持ってたっけ。
「さてと、私はそろそろ部屋へ行くね。明日早いから」
「そうなんですか……」
「ふふ、また明日もお話しましょうね」
「はい……!」
姫奈は名残惜しそうだったが、母さんに優しく頭を撫でられると、ぱっと顔を輝かせた。うちに預かってよかったな……。
母さんが出ていくと、リビングには俺と姫奈だけが残された。俺もそろそろ部屋へ行って勉強するか。
腰を上げようとすると、姫奈がふらりと近づいてきて、俺に抱きついてくる。
仕方なく、浮かせかけた腰を下ろした。
「なんか……楽しいです」
「そうか。よかったな」
姫奈はぎゅっと腕に力を込めると、胸に顔を埋めてくる。
結局そのまま英単語アプリをぽちぽちしながら過ごし、約二十分後。
『なっ────!?』
脱衣所の方から、麗奈の悲鳴が聞こえてきた。
続いて『何よこれ!?』『嘘でしょ……!?』と、パニック気味の声が響く。
「なんかお姉ちゃんの声がしますね」
「そうだな」
大方の予想はつくが、面倒だから放っておこう。
アプリを続けていると、すぐにバタバタと足音が近づいてきて、リビングの扉が勢いよく開いた。
「ちょっとお姉さん! 何なんですかこれ!」
「……うるさいなぁ。姉さんならいないよ」
姫奈を抱えたまま、入り口へと視線を向ける。
そこに立っていたのは、髪が濡れたままの、黒いネグリジェ姿の麗奈だった。丈は太腿の付け根ギリギリまでしかなく、開いた胸元からは豊かな谷間が露わになっている。
麗奈はリビングを見回し、悔しそうに顔をしかめた。
「……っ、逃げたな!」
きわどすぎる姿を、俺と姫奈は唖然と見つめる。
「凄い格好だな……」
「お姉ちゃん、それはアウトギリギリですよ」
「見ないで! エロいのはわかってるから!」
麗奈は顔を赤くしながら、胸を隠すように体を抱きしめる。だがそのせいで、余計に谷間が強調されている。何というか、麗奈が着ると姉さんより全然エロいな……。
「もう! お姉さんを信用したのが間違いだったわ! 案の定こんなエロいやつだったし!」
あの人、ついに強硬手段に出たか。
「……姉さんはそんな感じのしか持ってないと思うよ」
「えっ、普通の可愛いやつは!? あの人、普通のもあるって言ってたじゃない!」
「多分それのことじゃないか?」
「私が思ってたのと違う!」
「まあいいじゃん。そっちのが涼しそうだし」
「ですよね。エロいけど似合ってますよ」
「全然よくないし、これだけじゃないのよ! 見てよ!」
麗奈が片腕で胸を押さえながら、もう片方の手を突き出す。
その指先には、紫色のレースに小さなリボンがついた、手のひらに収まるほど布面積の小さいパンツがぶら下がっていた。生地は完全に透けていて隠す気などまるでなく、サイドも頼りない細い紐でしかない。
「私のパンツがなくなって、これ一枚だけ置いてあったのよ!」
「マジか」
さすがに酷いな。一応新品なんだろうけど……ちょっとやりすぎじゃないか?
……あれ? ということは。
「お前、もしかして……穿いてないの?」
「っ……うん」
麗奈は涙目で、もじもじと内股で膝を擦り合わせる。裸にあの丈の短いネグリジェ一枚か……ヤバいな。姉さんなら何とも思わないのに、麗奈が相手だとさすがに意識してしまう。
すると、俺の胸に顔を埋めていた姫奈が、ハッと顔を上げた。
「お姉ちゃん! 歩君の心臓がドキドキしてます! さっさとそのパンツを穿いてください! 大至急!」
余計なことを言うな。
「~~っ!?」
麗奈は必死にネグリジェの裾を引っ張りながら、耳まで真っ赤に染めて俺を睨みつけてきた。
「……まさかあんた、お姉さんとグルだったんじゃないでしょうね?」
「え、やめてくんない? 酷い言い掛かりなんだけど」
「だってドキドキしてるってことは、あんた、こういうの好きなんでしょ!?」
……嫌いな男なんかいないと思うが。
「姫奈、アリバイ証言してくれ」
「歩君はずっと私といちゃいちゃしてました!」
「……」
麗奈が冷たい視線を向けてくる。だからなんで余計な一言を追加するんだ。
「……Tシャツでいいなら貸すよ。下着だって別のを着ればいいだろ」
「そっか! じゃあ早くお願い!」
「へいへい」
母さんが部屋に行っててよかったな。こんな会話、聞かれたら気まずすぎる。
ふと入り口の方を見ると、姉さんが廊下の陰から顔を出して、こちらを覗いていた。
麗奈も気配に気づいて振り返る。
「あっ、お姉さん! 私のパンツ返してください!」
麗奈はぎこちない内股のまま、姉さんへと詰め寄っていく。
「バレた?」
「こんなのバレるに決まってるでしょ!」
麗奈は紫のパンツの端をつまみ、姉さんの目の前に突き出す。
「大人っぽくていいと思うよ」
「私にはまだ早いです! このネグリジェも全然普通じゃないですし!」
「今日だけ。お願い」
「何でですか!」
麗奈が必死に抗議すると、姉さんは「ちょっと話し合おう」と言って、廊下へ連れ出した。
数分後。
麗奈はさっきのネグリジェ姿のまま、とぼとぼと戻って来た。頬を赤く染め、落ち着きなくネグリジェの裾を指先でいじっている。
「……こんなパンツでも、見られなきゃ特に問題ないわけだし……あんた、くれぐれも夜這いに来たりしないでよね!」
こいつ、姉さんの押しに負けてあれを穿いたのか……。相変わらず流されやすいな……。
やっと一件落着かと思っていると、姉さんがさらなる爆弾を投下する。
「ところで、今日から私たちみんなで一緒に寝ようと思う」
「「えっ」」
俺と麗奈の声が重なる。なんか突拍子もないことを言い出したぞ。
「何でですか!?」
当然のように抗議の声を上げる麗奈。
一方で姫奈は「わーい! 楽しそうですね!」と嬉しそうだ。
「みんなばらばらに寝るとエアコンが勿体ない。うちは母子家庭なの。電気代が高いと母さんの負担になる」
その理由を聞いて、麗奈が言葉に詰まる。居候の身だからか、電気代とか言われると文句を言えないらしい。
しょうがない。助け舟を出してやるか。
「姉さん、麗奈も寝る時まで俺たちと一緒だとゆっくりできないんじゃない?」
俺の言葉に、姉さんは悲しそうに上目遣いで麗奈を見る。
「……そうなの?」
「あ、いえ。そういうのは大丈夫なんですが……私、歩と同じ部屋で寝るんですか……? この格好で……?」
麗奈がまじまじと自分のネグリジェを見下ろし、信じられないといった顔で固まっている。
「大丈夫、可愛いよ」
「いや、だからそうじゃなくて……」
麗奈がちらっと俺を見る。姉さんと姫奈もいるんだから、そこまで警戒しなくてもいいと思うが。つーか俺の助け舟に乗れよ。
「麗奈と歩は恋人同士でしょ? 問題ある?」
「……ないです」
どう見ても問題ありそうな顔をしてるぞ。
「もしかして、歩と二人がよかった? どうしてもって言うならそれでも――」
「わかりました。四人で大丈夫です……」
麗奈はがっくりと肩を落とした。
「よかった。私もたまには歩と一緒に寝たかったし」
この人、それが目的だったんじゃないだろうか。
麗奈も同じことを思ったらしく、姉さんへジト目を向けていた。




