69話 可愛い話【麗奈視点】
午後五時になる少し前、私たちは家を出た。
じりじりと刺すような日差しも和らいで、少しは歩きやすい。
並んで歩きながら、歩の横顔を盗み見る。さて、手を繋ぐのと腕を組むの、どっちにしようか。
五秒ほど真剣に悩んだ末、私は歩の左腕にぎゅっと抱きついた。
歩がちらっと視線だけを私に向けて、小さく息を吐く。
「……暑くないのか?」
「手を繋ぐのと迷ったんだけどね。今の気分はこっちかなって」
「なんか質問の意図と違うな」
呆れたようにため息をつきながらも、私を引き離そうとはしない。こんなふうに受け入れてくれるところは、けっこう好きかも。
「ねえ、ちょっと散歩していかない?」
「まあ、いいけど」
スーパーへ続く通りから逸れて、のんびり歩いていく。
住宅街が途切れた先に、大きな石造りの鳥居が現れた。生い茂る木々の間を、見上げるほど長い石段がまっすぐ伸びている。
「これって……」
もしかして、麻莉さんの家の神社なんじゃ……。
そういえばあの人、『今度昔の歩の話を聞かせてあげる』って言ってたわよね?
「ちょっと寄ってみていい?」
「ここは……また今度な」
あ、これ間違いない。
「行くわよ!」
「なんでだよ。買い物行くんだろ」
「ちょっとだけだから!」
「そんな気軽な感じで上る階段じゃないだろ!」
嫌がる歩の腕を引っ張って、石の鳥居をくぐる。
両脇には巨大な杉の木が立ち並び、木陰に入ると肌にまとわりついていた熱気がすっと引いていく。
長い石段を一歩ずつ上っていくにつれて、背後の車の音や街の喧騒が遠ざかっていった。
やがて階段を上り切ると、思わず後ろを振り返る。
「うわぁ、いい景色ね」
「そうだな」
眼下には、西日に照らされた街並みが一望できた。家々の屋根が眩しく光っている。
少しだけ景色を眺めてから、私たちは朱色の鳥居をくぐって境内へ足を踏み入れた。
敷き詰められた白い砂利を踏みしめながら、きょろきょろとあたりを見回す。
正面にはずっしりと歴史を感じる古い社殿、その右手には生活感のある大きめの社務所がある。……めっちゃ立派な神社だ。
ゆっくり歩いていくと、お社の方から足音と一緒に幼い声が飛んできた。
「あっ、歩お兄ちゃん!」
麻莉さんの娘の瑠璃ちゃんが、虫取り網を持って駆け寄ってくる。けれど、隣にいる私の姿が目に入った瞬間、不服そうな顔になった。
「……と、歩お兄ちゃんを捨てる悪い女」
思わずむっと眉を寄せる。この子、まだそんなふうに思ってたのか。
瑠璃ちゃんの背後から、麻莉さんが笑みを浮かべながら歩いてきた。今日の務めはもう終わったのか、巫女姿ではなく涼し気な部屋着姿だ。八歳年上らしいけれど、相変わらず同年代にしか見えない。
「こんにちは。どうしたの? 二人して。デートの帰りとか?」
それを聞いた瑠璃ちゃんが、ぷくーっと頬を膨らませて私を睨んでくる。
「うん、そんなとこ。なんか、麗奈が寄りたいって言うから」
まあ、わざわざ『親が出張中で、一緒に暮らしてて買い物に行く途中』だなんて、説明するのも面倒だしね。
「そうなんだ。何もないけど、お茶でも飲んでく?」
「いいんですか?」
「いいよー。よかったら向こうの縁側にでも座ってて」
「はい! お邪魔します!」
社務所の方へ去っていく麻莉さんを笑顔で見送っていると、歩が訝しげな視線を向けてきた。知らん顔しとこ。
「歩お兄ちゃん、一緒に虫取りしよ?」
「あー。うん、いいよ」
シャツの裾を引っ張っておねだりする瑠璃ちゃんに、歩は優しく頷く。
なんで子供ってあんなに虫を捕まえたがるんだろう。まあ、私にとっては好都合だけど。
「じゃあ私はいい子にして待ってるから。あんたは瑠璃ちゃんに付き合ってあげて」
「……」
私がにっこり笑って手を振ると、歩はジト目で睨んできた。
「行こ、歩お兄ちゃん」
ぐいぐいと手を引かれ、歩は諦めたように瑠璃ちゃんについていった。
私は麻莉さんに言われた通り、社務所の方へ向かう。
庭に面した縁側に腰を下ろすと、白地に茶トラ模様の猫がとことこ歩いてきた。喉をゴロゴロと鳴らしながら、足元にすり寄ってくる。
手を伸ばしてそっと頭を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。全然逃げようとしないし、すごく人懐っこい。
しばらく猫と戯れていると、麻莉さんが麦茶の入ったグラスをお盆に四つ乗せて、縁側に出てきた。
「あれっ、歩と瑠璃は?」
「なんか二人で虫取りに行きましたよ」
「そっか。あ、その猫ね、茶々っていうんだけど、歩が小学生のときに拾ってきたんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
「うん。公園に捨てられてたからって連れてきてさ。うちで飼うことにしたの」
「へぇ……」
丸くなる茶々を撫でながら、小さな歩が困った顔で子猫を抱えている姿を思い浮かべる。
「……なんか可愛いですね」
「でしょ? 可愛い話がいっぱいあるんだよ」
麻莉さんはお盆を置くと、私の隣に腰掛けた。それそれ。そういう話を聞こうと思ってたのよ。
「ぜひ聞かせてください。前に話してくれるって言ってたの、覚えてますよ」
「あぁ、そんなこと言ってたね。もしかして気になってた?」
「えぇ、まあ。少し」
実はめっちゃ気になってた。
「うーん。そうだなー」
麻莉さんが何かを思い出すように空を見上げる。
「昔、カブトムシを大事に飼ってたんだけど、夏が終わると死んじゃうじゃない? そしたらうちの絵馬に『アトラスが天国へ行けますように』って書いて祈ってたことがあったよ」
「ぷはっ、可愛い……! てかアトラスって! 普通のカブトムシですよね?」
「そうそう。この辺にいた普通のやつだよ」
「あははっ、名前だけ強そう!」
「面白いでしょ?」
真剣にカブトムシの冥福を祈る小学生の歩を想像して、麻莉さんと顔を見合わせて笑ってしまった。
「あとねー、お姉ちゃんの誕生日にオムライスを作るから練習させてくれって言って、うちの台所をめちゃくちゃにしたこともあったな」
「え、マジですか? 今あいつ結構てきぱきと料理しますよ」
「そうなるまでに苦労があったんだよ……」
その後も、麻莉さんから歩の子供時代の話をたくさん聞かせてもらった。
動物園でなぜかパンダを見て急に大泣きした話や、町内の凧揚げ大会で超サイヤ人を描いただけの凧を上げて、クラスの男子たちから大絶賛された話など、今の歩からは想像もつかないような、小学生らしくて可愛いエピソードばかりだ。
あいつにもそんな無邪気な頃があったんだなと思うと、なんだかおかしくて頬が緩んでしまう。
「あ、そういえば、運動会を見に行ったことがあるんだけどさ。借り物競争のときに、歩に手を引っぱられてゴールまで連れていかれたんだよ。でも、紙に何が書いてあったのかは結局教えてくれなかったなぁ」
……ん?
さらりと流された話に引っかかる。それって……。
「ところで、あの子、最近は学校ではどんな感じ?」
「え?」
麻莉さんに尋ねられ、思考が遮られる。
「えっと……そうですね。何かいっつも勉強してて、みんなからガリ勉だと思われてます」
「あはは、あの子らしいね」
「あと、みんなには爽やかな笑顔を向けてて、びっくりするくらい愛想がいいですね。私には普通なんですけど」
そう言うと、麻莉さんはふっと眉を下げ、困ったような笑顔を浮かべた。
「相変わらずか……あの子、中学のときに色々あったからね」
「えっ、何があったんですか?」
思わず麻莉さんの方へ向き直る。
だがそのとき、境内の方から明るい声が響いてきた。
「ママ〜! カブトムシ捕まえたー!」
マジで?
見ると、瑠璃ちゃんが得意げにカブトムシを掲げて駆け寄ってくる。本当に捕まえたんだ。
その後ろからは、虫取り網を肩に担いだ歩が、どこか誇らしげな顔で歩いてきた。
「二人、戻ってきちゃったからここまでだね」
「え、ちょっと待ってください。めっちゃ気になるんですけど」
「んー、じゃあ今度、本人に聞いてみるといいよ」
「えぇー……」
あいつ、素直に話してくれなさそうなんだけど。昔の話をされるの、嫌そうだし。
「でも、麗奈ちゃんの前では自然体で過ごしてるんだね。よかった」
まあ、それは嬉しいかな。前は「私にも猫を被れ」って思ってたけど。
「見て!」
そばまできた瑠璃ちゃんが、カブトムシを縁側に置いた。
立派な角を持ったカブトムシがゆっくりと動き出す。久しぶりに見たなぁ。
「よし、ヘラクレスと名付けよう」
後からやってきた歩が、大真面目な顔で言う。
思わず吹き出しそうになった。……こいつ、全然成長してない。
「ヘラクレス……! カッコいい!」
カブトムシを食い入るように見つめながら、瑠璃ちゃんがはしゃぐ。え、カッコいいんだ、これ。
歩はお盆にあった自分の麦茶を手に取って一気に飲み干すと、ふうと息をついた。
「そろそろ行くか。けっこう遅くなったし」
「うん」
私は立ち上がって、歩の横に並ぶ。
「また来てね、麗奈ちゃん」
「はい。お茶ごちそうさまでした。昔の話、面白かったです」
「え、ちょっと待って。麻莉さん、変なこと話してないよね?」
「大丈夫! 可愛い話しかしてないよ」
歩は「えぇ……」と、あからさまに嫌そうな顔をする。
実際、子供らしくて可愛い話ばかりだったしね。まあ、ちょっとだけ気になる話もあったけど。
歩は諦めたように肩を落とす。
「……じゃあもう行くよ。瑠璃もまたな」
「うん! ばいばい!」
元気に手を振る瑠璃ちゃんに見送られながら、私たちは社務所を後にした。
朱色の鳥居をくぐり、石段を一歩ずつ下りていく。
両側の木々からはヒグラシの涼やかな鳴き声が響き、見下ろす街並みには西日が当たっている。
さっきは腕を組んだから、今度は手を繋ごうかな、なんて思いながら横をちらっと見ると、歩は何だか少しテンションが下がっている。
「元気出して。夕飯に美味しいものを作ってあげるから」
「……ありがとう。元気ないの、半分くらいお前のせいだけどな」
恨めしそうにジト目で睨まれてしまった。
「とりあえず手、繋ご」
そう言って、歩の手を握る。
今日は中学のときの話を聞くのは無理そうだ。まあ、また今度機嫌がよさそうなときにでも聞けばいいか。




