65話 テスト勉強(後半)
翌日。
俺と姉さんは午前中から舞岡家に来ていた。
「なぜこうなるの? こっちの計算の目的を理解できてる?」
「……ふぁい」
「そうじゃない。ここで計算を終えた式全体をこっちに代入するの」
「……こうですか?」
「違う! カッコをつけないと符号が全部狂うでしょ!」
「ふえぇ……これでいいですか……?」
「うん」
姉さんが鬼教官と化している。この人、昔から勉強を教えるときはスパルタだったからな。
中学時代も、俺の同級生たちが半泣きになりながら教わっていたが、結果的に全員の成績が上がっていた。
ちらっとソファの方へ目を向けると、姫奈がゲームの手を止め、姉さんの様子を見て顔を青くしている。
俺はお茶を一口飲み、手元のノートに視線を戻す。自分の勉強も疎かにはできないからな。
やがて、姉さんがため息をついて立ち上がった。
「……疲れた。歩、代わって」
「うん。……麗奈の調子はどう?」
「正直言って、麗奈の頭の中がどうなってるのかわからない。一度解けたのと同じような問題がなぜできない?」
「うぅ……」
麗奈がすっかりへこんでローテーブルに突っ伏している。姉さんの言い草も厳しいな……
「……赤点は回避できそう?」
「それくらいなら、まあ、可能性はあるんじゃない?」
意外とマシな判定だな。昨日は絶望的だと思ったし。
「わかった。ありがとう」
「うん」
姉さんはそのままソファにどさりと倒れ込んだ。
その隣では、姫奈が縮こまるようにして、ちらちらと姉さんの様子を窺っている。
俺はぐったりしている麗奈の隣に移動し、声をかける。
「大丈夫か?」
「…………ぐす」
麗奈は力なく顔を上げると、目に涙を溜めて、俺の腰の辺りにしがみついてきた。
「うぅ……歩ぅ〜。お姉さん厳しかったよぉ……怖かったぁ」
「お、おう……そうか」
「頭撫でて……」
「……よしよし」
言われるまま頭を撫でてやると、麗奈は俺の太ももに顔を擦りつけながら、「すん……すん……」と鼻をすすり始める。……鼻水、服につかないだろうな?
「それで、少しは理解できたのか?」
「……うん、できたと思う」
「ならいいか」
こいつは泣きべそをかいているが、とにかく赤点を回避できればいいだろう。
少し落ち着いたのか、麗奈が不安そうに顔を上げる。
「ねえ……お姉さん、私のこと怒ってないかな……?」
「えっ、何で?」
「私が全然できないから……何か不機嫌そうだし……」
「大丈夫だよ。あの人、昔からあんな感じだから」
「そうなの……?」
「うん。姉さんのことは気にすんな。仮に不機嫌だとしても、どうせすぐに忘れる。それよりもう少し続けられそうか?」
「うん……」
麗奈がようやく体を離し、勉強を再開する。
俺は麗奈がつまずきやすいポイントを丁寧に教えていく。
「……で、こうなるんだよ」
「なるほど……そういうことか」
「じゃあ今のやり方で、この問題とこっちの問題をやってみて。途中でわからなかったら言って」
「わかった」
麗奈は「うーん」と唸りながら、俺が指定した問題を解き始めた。
その間、俺も自分の勉強を進める。
しばらくすると、玄関のドアが開く音が聞こえてきた。おっさんが帰ってきたみたいだ。休日だし、打ちっぱなしにでも行っていたのだろう。
「ただいまー」
おっさんがリビングへ入ってくると、俺たちはそれぞれ適当に「おかえりなさい」と挨拶を返す。
「……おわっ、麗奈が勉強してる!? どうなってんだ!?」
ローテーブルの俺たちに視線を向けた瞬間、おっさんが目を丸くして声を上げた。昨日の姫奈と同じような反応だ。……麗奈の奴、よく入試とか突破できたな。
「お姉ちゃん、赤点を取ったら夏休みは補習らしいですよ」
姫奈が棒付きアイスをかじりながら答える。
「何!? お前そこまでやべーのか!?」
「うるさいわね! だから今教えてもらってるんじゃない!」
「教えてもらってるって歩にか? 歩だって成績よくないだろ」
「……」
俺は無言でおっさんを睨む。この人、まだそんな認識だったのか。
「歩は学年一位よ」
「……えっ!? 嘘だろ!? 逆にやべーやつじゃねえか!」
「それに葵さんは東大合格確実らしいですよ」
「そんな奴この世にいるか!?」
いや、いるのはいるだろ。毎年ある程度の人数が東大に入ってるわけだし。
「うーむ……なんか姉ちゃんが雲の上の人に見えてきたぞ……」
「それはわかる」
正直、化け物としか思えないからな。
そんなふうに話していると、つんつんと腕をつつかれる。
「ねえ、ここがちょっとわからないんだけど……一問目は解けたんだけどね!」
「おぉ、偉い偉い」
適当に褒めてやると、麗奈は嬉しそうに頬を緩める。
「どれどれ。んー、これは両辺を3のn+1乗で割って……」
「あ、なるほど」
麗奈は納得したようにペンを走らせ始めた。
その様子をじっと見ていたおっさんは、無言でキッチンへ向かった。
リビングへ戻って来ると、俺の目の前に湯呑みを置く。
「俺のお気に入りの高級梅昆布茶だ。飲んでくれ」
「……え? 何で?」
「こいつに勉強を教えてくれてるお礼だ」
お礼が梅昆布茶? というか高級な梅昆布茶って何だ。
……まあ、お礼ということなら飲むけど。
そう思って湯呑みに手を伸ばそうとして、うっすらと湯気が立っていることに気づいた。
「……いや、暑いんだけど」
今は六月末で、外は夏に差しかかったような暑さだ。部屋は冷房が効いているとはいえ、わざわざ熱い飲み物を飲みたくない。
「それは熱いのが美味いんだ」
「……じゃあ飲むよ。ありがとう」
一応おっさんの気持ちみたいだしな。
一口飲んでみると、割と美味い。
熱い梅昆布茶をすすっていると、麗奈が「できたー!」と声を上げた。
俺はノートを覗き込み、途中式と答えを確認する。
「うん、オッケー。ちゃんと解けてるな」
「やったー!」
両手を上げて喜ぶ麗奈。最初よりは明らかに問題を解けるようになっている。公式や問題の意味すら理解していなかった分、それが分かればマシにもなるか。
「この調子ならテストまでには間に合うんじゃないか」
「私もレベルが上がった気がするわ」
まあ、赤点は回避できるだろう、くらいのレベルだけどな。
俺たちの様子をじっと見つめていたおっさんは、ふっと背を向けて目頭を押さえる。……泣くほどのことなのか。
その後、一時間ほど勉強を続け、休憩することにした。
「じゃあお昼を作るわね。あんたも食べるでしょ?」
「うん、悪いな」
「別にいいわよ。勉強も教えてもらってるし。てかいつものことだし」
「歩君、休憩するなら格闘ゲームしましょう!」
「いいよ。俺が勝ったらアイスな」
「オッケーです」
俺はテレビの前へ向かい、姫奈の隣に腰を下ろした。
「ちょっと待て。飯を食いたいんなら俺と勝負しろ!」
「えぇ……」
また将棋かよ。あんたの娘に勉強を教えて疲れたんだけどなぁ。ゲームは適当にやって普通に楽しいけど、将棋は頭を使うのでちょっと怠い。
「じゃあ私がやる」
ソファでだらけていた姉さんが顔を上げる。
普段は自分から動かないくせに、最近おっさんの相手をするときは割と楽しそうに見える。
「いや、姉ちゃんはちょっと……強すぎるからな……」
今までさんざんボコられたせいか、ビビるおっさん。
「飛車角落ちでいい」
「そこまで舐められちゃ黙ってられねえ! 勝負だ!」
飛車角落ちって、かなりのハンデなんだが……
その後、麗奈が「ご飯できたわよー」と呼びに来る頃には、おっさんは「参りました……」と悔しそうに項垂れていた。
姉さん強すぎだろ。




