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52話 緊張します【麗奈視点】

 土曜の夕方。


 橙色の西日が穏やかに住宅街を包み込む中、私たち親子3人は、目的地である三島家の前に辿り着いた。


 どこにでもあるごく普通の一軒家だ。けれど、ここで歩が暮らしているのだと思うと、何故か特別な場所のように思えてくる。


 何故舞岡家総出で彼の家へ押し掛けることになったのかといえば、あの後、葵さんが「おじさんも呼ぼう」と言い出したからだ。


 葵さんから「1人で夕飯を食べるのも寂しいでしょ?」と半ば強引に押し切られ、お父さんは珍しく恐縮しながらついてくることになった。


 もしかして、思っている以上に、葵さんはお父さんに好感を抱いているのだろうか。


 敷地へ足を踏み入れ、玄関のそばに備え付けられたインターホンのボタンを押す。


 持っていた保冷バッグの持ち手を握りしめる。中には朝から作った新作料理が入っている。


 ……少し緊張する。歩の家を訪れるのが初めてな上に、もうすぐ彼のお母さんと対面することになるのだ。……一体どんな人なんだろう。


 やがて、ガチャリと内側の錠前が外れる音がして、玄関の扉が開いた。


 顔を出したのは、ラフな家着姿の歩だった。


「いらっしゃい」


 歩が普段通りの微笑みを向けてくる。あ、何かほっとする。緊張が少し解けた。


「歩君! こんにちは」


 隣にいた姫奈が、屈託のない笑顔を見せる。


 一方、お父さんは、少し不安げに眉尻を下げた。


「なあ、本当に俺まで来てよかったのか?」

「うん。こっちが誘ったんだし」

「まあ、そうか」


 きっとお父さんは、子供の付き合いに親まで出張るのもどうかと思っていたのだろう。


 彼に招き入れられて、玄関へと足を踏み入れる。


「ようこそいらっしゃいました!」


 廊下の奥から、ぱたぱたというスリッパの音と共に、エプロンを身に付けた女性が出迎えに現れた。上品な美しさと、周囲の空気を和ませるような物腰の柔らかさを纏っている。……優しそうな人だ。良かった。


「母さん、こっちが麗奈と姫奈。で、この人が2人の父親だよ」


 歩に紹介され、お父さんは居住まいを正して、丁寧に頭を下げる。


「どうも、初めまして。舞岡剛士といいます。この度は夕食にお招き頂き、ありがとうございます」

「は、初めまして。麗奈です」

「こんにちはです……」


 お父さんに続いて、私と姫奈もぎこちなく頭を下げた。


 彼氏のお母さんという重大な存在を前にしたことで、私の声は緊張のあまり、少し上ずっていた。


 いつもは物怖じしない姫奈も、突然借りてきた猫のように体を縮め、大人しくなっている。


「ご丁寧にどうも。葵と歩の母の、楓です。うちの子たちがいつもお世話になっています」

「いえいえ、こちらこそですよ。あ、よかったらこれ……今夜はすき焼きだと伺ったので、足しにでもしてください」


 お父さんはそう言って、デパ地下の有名精肉店のロゴが入った上品な木箱を差し出した。「肉を差し入れに持って行こう!」と朝から息巻いて調達してきた、高級な霜降り牛肉だ。


「これはこれは、どうもありがとうございます。どうぞ上がってください」


 楓さんの案内に従って、玄関で靴を揃え、リビングへと入る。


 部屋の中央に置かれた長方形のローテーブルの上には、すでにすき焼き用の鍋がセットされており、それを囲むようにして、人数分の取り皿や箸が並べられていた。テーブルの周りには、座布団が敷かれている。


 部屋の奥にあるソファの上では、葵さんがだらけきった姿勢でテレビ画面を眺めている。あの人はどこにいても変わらないみたいだ。


「もうすぐ準備が出来ますので、適当に座って寛いでいてください。えっと……剛士さんは、明日はお休みですか?」

「そうですね。明日は日曜なので、仕事は休みです」

「ではビールでもどうですか?」

「あ、はい! 頂きます」

「すぐにお持ちしますね! 麗奈ちゃんと姫奈ちゃんはオレンジジュースでいいかしら?」


 楓さんが優しげに微笑むと、姫奈は頬を赤く染め、ビクッと体を強張らせた。どうやら理想のお母さん像を体現したような楓さんを前にして、緊張が限界値を迎えているようだ。


「麗奈はウーロン茶だろ?」

「あ、うん」


 歩が私を気遣うように、フォローの言葉を挟む。何だか私のことを把握されているみたいで、胸の奥がくすぐったい熱に満たされる。


「わ、私はオレンジジュースをお願いします!」

「ふふ、わかったわ。座って待っててね」


 楓さんは楽しげに微笑み、キッチンへと向かった。歩が「俺も手伝うよ」と彼女の後を追う。


 あいつは普段から、あんな風にお母さんの手伝いをしてるんだろうな。私がキッチンに立っているときにも、よく「何か手伝おうか?」と隣にやってくるもんね。


 私たちは、ローテーブルのそばに敷いてある分厚い座布団の上に腰を下ろした。


 手荷物を自分の脇へそっと置き、スカートの裾を整える。


 ほどなくして、歩と楓さんの手によって、人数分のグラスと、冷えた瓶ビール、そしてペットボトルのウーロン茶にオレンジジュースが運ばれてきた。


「どうぞ、先に飲んでいてください」

「ありがとうございます。頂きます」


 楓さんは歩に「注いであげてね」と言い残し、再びキッチンへと戻って行った。


 歩が手際良く栓抜きを使い、瓶ビールの蓋を開ける。


「はい、おっさん。飲んでくれ」

「おう、さんきゅー」


 お父さんがグラスを手に取って少し傾けると、歩は黄金色の液体を、泡の比率を抑えながら注いでいく。


 お父さんは喉が渇いていたのか、待ってましたとばかりに、ぐびっと半分程一気に喉に流し込んだ。プハァと満足げな吐息が漏れる。


 歩は苦笑を浮かべながら、嵩の減ったグラスへ再びビールを注ぎ足した。


 続いて、歩は私たちのグラスにも、ウーロン茶とオレンジジュースを注ぐ。


「ありがと」

「あ、ありがとうございます」

「姉さんもお茶でいいよね?」

「うん」


 歩がソファにいる葵さんに声を掛け、さらに2人分のグラスにお茶を満たしていく。


 そんな彼のTシャツの裾を、姫奈がくいくいっと引っ張った。


「歩君、歩君! ……やばいです! 緊張します!」


 彼女の頬は依然として赤く、表情も硬いままだ。


「あぁ、何か緊張してるな……もしかして母さんのことが怖いのか?」

「と、とんでもないです! 凄く優しそうなお母さんです!」

「そっか。じゃあ甘えてくれば? お前なら可愛がってくれるぞ」

「えっ……! マジですか……!?」


 歩の思いつきのような提案に、姫奈は不安と期待が入り混じったような表情で、ちらっとキッチンに立つ楓さんの方へ視線を向けた。


「さっ……作法が! お母さんに甘えるときの作法がわからないです!」

「お、おう……そうか。そんな作法はないと思うけど。とりあえず準備を手伝ってくるわ」


 歩は苦笑を漏らすと、立ち上がり、キッチンへ戻っていった。


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