37話 健全な付き合い
対局開始から、すでに一時間半が経過していた。
盤上には互いの思考が幾重にも積み重なり、火花を散らすような緊張感が立ち込めている。
駒を打つ乾いた音はいつの間にか途絶え、代わりに聞こえてくるのは、おっさんの重苦しい唸り声だけだ。
「ぐぬぬ……」
眉間に深く皺を寄せ、盤面を睨みつけるおっさんの表情は、必死さを通り越して苦悶の色を帯びている。
指先はわずかに震え、救いを求めるように駒を撫でていた。だが──
「参りました……」
ついに力尽きたように首を垂れ、絞り出すような声で敗北を告げた。
「よし、勝った! カニゲットー!」
張り詰めていた空気が一気に弾ける。
俺は立ち上がり、拳を突き上げた。胸の奥からせり上がってくるのは、これから訪れる美食への純粋な歓喜だ。これでカニを食べられる!
「歩君が勝ったんですね! 良かったです!」
「おう!」
姫奈が子犬のような足取りで近寄ってくる。その満面の笑みに応え、ぱちんとハイタッチして喜びを分かち合う。
「えっ、あんた勝ったの? やるじゃん」
「まあな!」
エプロン姿の麗奈が、包丁を止めて近寄ってきた。彼女の表情は安堵したようにふわりと綻んでいる。俺は勢いのままに手を差し出し、彼女ともハイタッチを交わした。
勝利の宴に沸く俺たちをよそに、おっさんは1人、抜け殻のように将棋盤を凝視したまま、唇を噛み締めていた。
「くっ……まさか、この角が囮だったとは……」
「当たり前だろ! 角をタダで捨てるわけないじゃん」
「っ……! くそっ……てめー、めちゃくちゃ強いじゃねえか! 何がほとんど勝ったことねえだ!」
「それは本当だよ」
だって姉さんにはほとんど勝ったことないし。あの人マジで強いからな。
「嘘付け! 騙しやがって、きたねーぞ!」
「いや、おっさんがやるって言い出したんだろ。しかも平手勝負じゃん」
「くっ……」
ハンデなしの勝負に汚いも何もない。大体、おっさんの方が得意なゲームで勝負を吹っ掛けてきたんだから、よっぽど大人気ないだろ。
「これで心置きなくモンスター退治ができます」
姫奈は安心したのか、軽やかな足取りでソファへと戻った。
テレビ画面の中では大量のモンスターがうごめき、彼女の指先は器用にコントローラーを操り始める。
「…………仕方ない。わーったよ! こいつをお前の彼氏として認めてやる!」
おっさんはやけくそ気味に麗奈へ言い放った。……そう言えばそんな条件もあったな。
「そっか……それならまあ、良かったけど……」
麗奈は顔をほんのりと赤く染めて呟く。
「そんなことよりカニを食おう」
「あんたほんとムカつくわね! もうすぐ出来るから待ってなさい!」
「はーい」
麗奈はぷんすかと肩を揺らし、キッチンへ引き返していった。
※※※
食卓には俺と麗奈が並び、向かい側におっさんと姫奈が座っている。
カセットコンロの上で熱を蓄えていた土鍋の蓋を、麗奈が静かに持ち上げた。
閉じ込められていた白い蒸気が、芳醇な海の香りを伴って溢れ出す。その霧の向こうから、美しく整列した具材が姿を現した。
黄金色に澄み切った昆布出汁の海に、半分だけ殻を剥かれ、瑞々しい白身を覗かせたズワイガニ。その周りには、野菜や豆腐、しいたけなどが彩りよく並んでいる。
傍らに置かれた小皿からは、搾りたての橙の爽やかな酸味が立ち上る。
胃袋の奥が、期待に震えてぐうと鳴った。
「「「「いただきまーす」」」」
俺は迷わず菜箸を伸ばし、獲物を引き上げた。
殻から伸びるカニの足の身を、柑橘の香るタレに浸し、口へと運ぶ。
「美味い!」
咀嚼した瞬間、濃厚な旨味が口いっぱいに広がった。きめ細やかな肉質は、噛むたびに甘みを増し、舌の上で溶けていく。
わずかな柑橘の酸味が、脂の乗ったカニの風味を際立たせる絶妙なアクセントになっている。
「この付けダレもお前が作ったの?」
「そうよ。美味しい?」
「めちゃ美味い」
「そう、良かった」
麗奈が照れ臭そうに微笑む。うん、ただの可愛い彼女だな。てかこの付けダレ本当に美味いな。
姫奈も「美味しいです」と頬を綻ばせながら小さな口を熱心に動かし、おっさんは「良かったな」と姫奈に微笑んでいる。
「おっさんありがとう」
俺は感謝の意をおっさんへ告げた。
「……まあいいだろう。将棋も強いしな」
「親戚の方にも美味しかったです、またお願いしますとお伝えください」
「お前礼儀正しいフリしてるけど図々しいな!」
「また食べに来るつもりなのね」
「もち」
「いやもちじゃねーし!」
おっさんの怒号が食卓を震わせるが、俺の箸が止まることはない。このおっさん、怒りながらも律儀にツッコミを入れてくれる。結構ノリが良いタイプなのかもしれない。
「つーかこいつ、色々と常識とか礼儀とか無さ過ぎねえか?」
「そうね」
「歩君ですしね」
「えっ、嘘だろ」
3方向からの同時攻撃に、思わず箸が止まる。
礼儀については否定できない部分もあるが、常識はあるだろう。少なくとも、壁ドンすれば女子と付き合えると信じている連中や、妬んで校舎裏に呼び出すような連中よりは常識的なはずだ。
「でもおっさんだって最初から俺に喧嘩腰だったじゃないか」
「まあそれは悪かったが……」
おっさんは言葉に詰まり、気まずそうに視線を彷徨わせた。頑固な横顔がわずかに揺れ、角が取れたような柔らかさが混じる。
「僕も悪かったですね。麗奈さんのお父さんと呼ばせて頂きますね」
「いやもういいって言っただろ。逆に気持ち悪いわ」
「じゃあいいか」
「おう……」
おっさんは釈然としない様子で頷き、視線を麗奈へ移す。
「なあ、こいつが優等生って本当なのか? 嘘ついてんじゃねえのか?」
おっさんの疑念に、麗奈は箸を止めて天井を仰ぎ、記憶の糸を辿る。
「うーん……でもそう言えば、休み時間にもよく教科書を開いてるわよね?」
「マジか? お前それはやり過ぎだろ。逆に怖いぞ」
「……いいだろ、別に」
「そうか……よっぽどヤバいんだな」
「なるほど。そういうことね」
勝手に納得する親子。舐めてんのか。
「ふふ。お姉ちゃんとお似合いですね」
あれ? この小学生、今さらっと毒を吐かなかったか? もしかして一番悪いのはこの妹なのではないだろうか。
「姫奈? 今のどういう意味? 詳しく言ってみなさい」
「ごめんなさい。お姉ちゃんはとても美人で素敵な彼氏が居て羨ましいです」
「よし」
色々突っ込みたいが、まあいいか。
俺は思考を放棄し、再びカニの旨味に没頭する。
「……ところで、お前ら一体どこまで進んでるんだ?」
おっさんが探るような、それでいて躊躇いがちなトーンで尋ねる。
和やかだった食卓の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……何のことよ?」
「いかがわしいことなんかしてねえだろうな?」
「はぁ? 変なこと言わないでよ」
「別に変なことでもないだろ。どうなんだよ歩?」
「ははっ」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
本物の恋人じゃないんだから何もないに決まってる。質問自体が馬鹿らしい。
「おいてめー、何だその笑いは?」
「ふふっ」
「まさか……! この野郎、よくもうちの娘を傷物にしてくれたな!」
おっさんはばんっと箸を叩きつけ、勢いよく立ち上がった。テーブルがわずかに揺れ、鍋の出汁が揺らめく。
しまった。変に笑わなければよかった。食事中なのに唾が飛んできた。
「ちょっ、何よ傷物って! あんたも何言ってんの!?」
「俺は何も言ってないけど」
「麗奈てめえ何してんだ! 彼氏が出来たばっかりのくせに!」
この親父、笑っただけで勘違いして騒ぐところも麗奈にそっくりだな。
「だから何もしてないわよ!」
「正直に言え!」
言い争う2人をよそに、俺と姫奈は黙々とカニを食べ続ける。美味い。
「正直に言ってるわよ! 何で信じないの!?」
「お前は流されやすいから心配なんだ!」
うるさいな、この2人。不毛な親子喧嘩は一向に終わる気配がない。
仕方ない。そろそろ止めるか。唾も飛んでくるし。
「おっさんおっさん」
「何だよこらてめー!」
「麗奈とは何もないから大丈夫だよ。手も繋いだことないから」
興奮するおっさんを宥めるように、事実を告げる。膝枕はほぼ毎日して貰っているが、わざわざ言わなくてもいいだろう。
「あぁ? そうなのか?」
「うん」
「本当だろうな!?」
「本当だって。だから安心しなよ」
未だに疑り深い視線を向けてくるおっさんに、俺はカニを咀嚼しながら答えた。熱々の繊維から溢れ出す磯の甘みが、舌を優しく包み込む。マジで美味いな、カニ。
「そうか。でもお前、さすがに手も繋いだことがないってのは奥手過ぎねえか?」
「どうしろっていうんだよ」
清廉潔白だっていうのに、何で文句を言われなきゃいけないんだ。
「まあいいか。中々健全な付き合いをしているようで何よりだ」
「わかってくれたか」
「おう」
ようやく納得したおっさんは、どかっと重そうに腰を下ろし、再び箸を手に取った。
「だから私もさっきからそう言ってたじゃん……」
麗奈も小さく肩を落とし、溜息を吐く。彼女の横顔には、嵐をやり過ごした後のような安堵と疲弊が混ざり合っている。
「おい歩」
「何?」
「飯食ったらもう一回勝負しないか?」
「やらない。食ったら帰る」
「あぁ? 少しくらい遅くなっても問題ないだろ! てめー勝ち逃げする気か!?」
「どうせもう1回やっても同じだって」
「何だとコラ? さっきは油断しただけだろが!」
「お父さん、しょうもない言い訳しないの」
「くっ……」
この親父は短気ですぐ熱くなるけど、娘には弱いらしい。
そんな姿がおかしくて、俺の頬が自然と緩んだ。
「ごめん。そろそろ帰って夕飯を作らないといけないんだ。姉さんも待ってるし」
その後はお風呂に入って、勉強もしないと。
姉さんは怒っているかもしれないな。
最近、帰宅が遅れがちな俺に対し、姉さんの機嫌は右肩下がりだ。そのせいで夜も俺のベッドに潜り込んで甘えてきたりするのだ。
「何? お前が夕飯を作るのか?」
「うん。母さんは帰りが遅くなることが多いからね」
「親父さんは?」
「……」
一瞬、思考が止まる。
そのわずかな空白を埋めるように、麗奈が静かな声でフォローを入れた。
「……お父さん、亡くなったんだって」
「っ……そうか……すまん」
おっさんが気まずそうに視線を逸らす。
「いや、大丈夫だよ」
「えーっと……お前も大変なんだな……」
「別にもう慣れてるよ」
不意に舞い降りた湿っぽい空気。それを振り払うように、俺は再びカニを口に運んだ。美味い! 絶品だ!
「お姉さんにも料理を教えたら?」
「あの人はやる気がないから無理だな」
「お姉さんぐうたらな人なんですね」
「まあね」
「姉と言えど一度ガツンと言った方がいいんじゃないか? お前もたまには作れとか言えばいいだろ」
「ちなみに姉さんは俺より将棋が強いよ」
「……それなら仕方ないな」
おっさんは得心がいったというように「うむ」と深く頷いた。この親父、将棋が強ければ何でもいいのか。
カニちり鍋を完食し、胃も心も充足感で満たされたところで、俺は席を立った。
「じゃあもう帰るよ。どうもご馳走様でした」
「おう、また来いよ」
「……うん。ありがとう」
おっさんの口から出た意外な歓迎の言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。
リュックを肩に掛け、玄関へ向かう。
その後ろを、麗奈がとことこと付いてきた。こいつはいつも玄関まで見送りにきてくれるんだよな。本当に可愛い彼女か。
「じゃあまたな」
「うん、また明日」
玄関先で手を振り、舞岡家を後にした。
街灯が点々と続く夜道を、軽やかな足取りで歩く。
家に着くと、既に帰宅していた母さんが、キッチンで夕食の支度をしていた。
そして案の定、リビングのソファでは、姉さんが不機嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。
俺は「ただいま」と短く一言だけ残し、静かに自分の部屋へと向かった。
カニを食べたことは内緒にしておこう。




