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31話 閑話 春休みのある日

 これはまだ麗奈と出会う少し前の話。


 春休みの、とある午後。


 俺は住宅街を背に、天を突くように伸びた、百段程ありそうな古い石段を上っていた。


 その両脇には、樹齢数百年を数える巨大な杉の木がそびえ立っている。一歩上る度に背後の騒音は遠ざかり、代わりに静かな風の音が耳を支配し始める。


 階段を登り切ると、鮮やかな薄桃色が飛び込んできた。それまでの静寂を塗り潰すように、満開の桜が咲き誇っている。


 境内には朱色の鳥居が静かに佇み、白い砂利が敷き詰められている。


 正面には長い年月を経て黒ずんだ木造の本殿が静かな威厳を放ち、その右手、大きな梅の木の陰には、住居を兼ねた社務所がひっそりと建っている。


「あ、歩。また来たんだ」


 純白の白衣に、鮮やかな緋色の袴を纏った女性が、俺を見つけて近付いてきた。


 巫女姿の彼女は、和泉麻莉さん。


 箒を手に境内を掃き清める姿は、まだ小学生だった俺が見上げていた頃と、何一つ変わっていないように思える。


 光を透かす柔らかな栗色のショートヘアに、ぱっちりとした大きな瞳。8つ年上の立派な大人の女性なのだが、同年代の女子と言われても疑わないほどの童顔だ。


「うん。まあ連休だし、たまには外に出ないとね」


 俺は目を逸らし、遠くの街並みを眺めながら答える。


「どっか出掛けなよ。桃ちゃんとかと」

「あー、そう言えば、この前買い物に付いてきてとか言ってたな」


 桃は中学の同級生だ。高校は別れたが、彼女たちとは、卒業後も遊びに誘われる程度の縁は続いている。


「行かないの?」

「行かない。だってあいつ買い物めっちゃ長いもん」

「女の子は買い物が長いものなんだよ。それくらい付き合ってあげなよ」

「何でだよ。女同士で行けばいいだろ」

「もう! わかってないんだから」

「俺は忙しいんだよ。勉強で」


 小学生の頃、俺は街が一望できるこの神社に入り浸っていた。


 何か困ったことがあると、何でも麻莉さんに相談した。たかが小学生が持ってくる困り事だ。麻莉さんはいつだって、俺のくだらない相談事を笑いながら、明快な答えを出してくれた。



『麻莉姉ちゃん、クラスの男子と女子の仲が悪いんだ。すぐに喧嘩になるんだ。どうしたらいい?』

『小学生の男子なんてクソガキだからねー。女子に意地悪してる奴とか居るんじゃないの? あと掃除をサボる奴とか』

『そういやそんな奴も居たな』

『いい? 女の子に意地悪せずに優しくして、掃除もサボらないように言うの』

『そんな簡単にいくかな』

『さあ。男子が素直に言うことを聞けば上手くいくんじゃない?』

『そうか。わかった!』



『麻莉姉ちゃん! 子猫が捨てられてたんだ! どうしたらいいかな?』

『可愛いねー。どこにいたの?』

『向こうの公園だよ。ダンボール箱に入ってたんだ』

『よし! 可愛いからうちで飼おう!』

『ほんとか!? 頼むぞ!』

『任せとけ!』



『あら、友達?』

『そうだよ。京介っていうんだ』

『そうなんだ。よろしく!』

『あ、はい。よろしくお願いします』

『んで相談なんだけどさ、こいつがクラスの女子とぶつかった拍子に偶然胸を触ったらしくて、そのせいで女子たちに冷たくされてるんだ。どうすればいいんだ?』

『あはは。その子も大袈裟だなぁ。どうせぺったんこのくせに』

『つまり、そんなもん触られたくらいでごちゃごちゃ言うな! って言っておけばいいのか?』

『いや、それは駄目だよ。ちゃんとその子に謝って許してもらうの』

『そんなんで許してくれるなら苦労しないだろ』

『場合によっては美味しいパフェでも奢ってあげればいいんじゃないかな。小学生ならそれで大丈夫!』

『なるほど! それならいけるな!』

『わかりました。ありがとうございます』



『クラスで1番走るのが速くなるにはどうしたらいいんだ?』

『走るのはほぼ才能だからなぁ。思い切り走って無理なら無理じゃないかな』

『わかった……』



『学校にお化けが出るって噂があるんだ。探して倒さないといけないから一緒に来てくれ!』

『えー、嫌だよ。怖いもん。放っとけばそんな噂すぐなくなるって』

『そうなのか……』



『こんにちは……ま、麻莉さん』

『ん? 何で呼び方変えたの?』

『麻莉姉ちゃんのこと姉ちゃんって呼んでると、うちの姉さんが不機嫌になるんだ』

『あー、なるほど。それなら仕方ないね!』



 諦める方向で解決することも多かったな……まあ言ってることは結局正しかったからいいんだけど。


 そして、俺が6年生のとき。


 父さんが病によって、この世を去った。


 葬式を終えて数日後、俺は心に穴が空いたような心地で、いつものように神社を訪れた。


 石段の最上段に腰を下ろし、ぼんやりと街を眺めていた俺の隣に、麻莉さんが静かに並んで腰を下ろした。


『麻莉さん……教えて欲しいことがあるんだ』

『うん。何?』

『父さんが……母さんと姉さんのことを頼むって言ってた。……どうしたらいいんだ?』


 父の最期の言葉。その重みに押し潰されそうになりながら問いかけると、麻莉さんは『うーん』と空を見上げてしばらく考え込んだ。


『やっぱり、まずは経済力じゃないかな』

『経済力って……何をすれば……?』

『だから、勉強して、いい大学に行って、給料の高い会社に入るの。世の中お金で解決できることって多いし、お父さんも、あんたが安定した職に就くと安心すると思うよ』

『……そうなのか』

『あとは、お母さんとお姉さんを大事にしてあげればいいと思うよ』

『そっか……うん、わかった』


 街を一望できるこの場所で、俺は自分の進むべき道を決めた。



 麻莉さんと話していると、足元を影が横切った。清潔感のある白い毛をベースに、目の周りや頭のてっぺん、尻尾に鮮やかな茶トラ模様が入った猫だ。


「茶々〜、待ってー」


 猫を追いかけて、小さな足音が境内に響く。


 麻莉さんによく似た栗色の髪を2つに結った女の子。4歳になる、麻莉さんの娘の瑠璃ちゃんだ。


「あ、歩お兄ちゃん!」


 瑠璃は俺を見つけるなり、小さな体を弾ませて飛びついてきた。


「おー、瑠璃。今日も元気だな」

「歩お兄ちゃん、遊ぼー」

「いいよ。何する?」 

「抱っこして!」

「お、おう」


 俺は無邪気な信頼を受け止めるように、彼女の小さな体を抱き上げた。


「ん、何か重くなったな」

「瑠璃、大きくなった!」

「そうか。大きくなっちゃったか」


 数ヶ月前はもう少し軽かったと思うんだが。子供の成長って本当に早いんだな。


「瑠璃、大人になったらね……」

「うん」

「……やっぱり何でもない!」


 瑠璃は口を押さえて笑みを浮かべる。


 俺は「そうか」と、微笑み返す。


「あ! ねえ、茶々は歩お兄ちゃんが拾ってきたってほんと?」

「そうだよ。ずっと前に、向こうの公園に居たんだ」

「ふーん。それで連れてきたの?」

「1人で寂しそうだったからな。良かっただろ?」

「うん! 良かった!」


 瑠璃ちゃんは俺の胸の中で、屈託なく顔を綻ばせる。


「そうだ。歩お兄ちゃん、桜が咲いてるからお花見しよ!」

「お花見? 何するんだ?」

「桜を見ながらお菓子を食べて、ジュースを飲むの!」

「うん。いいよ」

「じゃあ持ってくる!」


 俺の腕から飛び降りると、瑠璃ちゃんはたたたっと社務所の玄関へと駆け込んで行った。





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