2話 翌日
朝のざわついた昇降口。
俺は内履きに履き替えると、中央階段へと歩を進める。
そこへ、ふくよかな体躯の女性教師が通り掛かった。国語を担当している先生だ。
「あら三島君。おはよう」
「おはようございます」
俺は自然な笑顔を作り、会釈を返す。
「丁度良かった。悪いけど、これをあなたの教室まで持っていってくれない? 私荷物が多くて。1限の授業で使うものなんだけど」
差し出されたのは、重みがありそうな分厚いプリントの束だった。彼女は職員室へ向かう途中のようだが、他にも重そうな鞄を持っている。
「はい、いいですよ」
俺は笑顔で先生からプリントの束を受け取った。
「ありがとう。助かるわ。じゃあお願いね」
「わかりました」
先生が軽くなった足取りで去っていくのを見送り、俺は再び階段へと足を向ける。
2階まで上り、普通教室が並ぶ廊下を進む。
2年F組の教室に足を踏み入れると、近くに居た男子生徒が声を掛けてきた。
「あ、三島君、おはよっす」
陽気な声で挨拶をしてきたのは、茶髪に金メッシュが入った、派手な見た目の男子生徒だ。制服も緩く着崩していて、何となくチャラい。見るからに陽キャだ。
「うん、おはよう」
軽く微笑んで挨拶を返すと、彼は満足そうな表情で離れていった。
……あの人、名前何だっけ。思い出そうとしても浮かばない。何しろまだ新しいクラスになったばかりで、顔と名前が一致しないことがある。その程度の関係なのに名前を呼んで挨拶してくれるなんて、さすが陽キャだ。
彼は向かった先で男女数人の輪に加わり、楽しそうに笑い始めた。
その集団の中には、一際目を引く容姿の、女子生徒の姿があった。
艶のあるセミロングの黒髪が肩のラインに沿って流れていて、口元には控えめで品のある微笑みを浮かべている。舞岡麗奈だ。
舞岡はどこかの箱入りお嬢様のように物腰柔らかく、にこにことお淑やかな笑みを浮かべている。
────超猫被ってるよ、そいつ。それビジネス笑顔だから。俺も多少は猫を被っているけど、彼女程ではないな。
別に俺や舞岡だけじゃない。高校生ともなれば、こんなふうに外面を取り繕って過ごしている奴も多いだろう。教師の前では礼儀正しく、友達の前では話を合わせて、必要なら陽気に振る舞いながら日々を凌ぐ。
俺は舞岡に声を掛けることもなく、目を逸らした。別に避けているわけでも、何かを気遣っているわけでもない。ただ用事がないだけである。
俺は預かったプリントの束を教卓の端に置くと、窓際の最後列にある自分の席へと向かった。
通学用のリュックを机の脇に掛けて腰を下ろすと、日本史の教科書を取り出して開く。
ホームルームまでの時間は少しでも勉強する。
俺は優等生なのだ。
※※※
昼休みの踊り場。
弁当を食べ終えて、両腕を枕にしながら床に寝転がる。
「……ん?」
気配のようなものを感じて目を向ける。
階段の影から、昨日現れたのと同じ、綺麗な顔立ちの女子がこちらを覗いていた。その眼差しは、躊躇うようで、どこか探るようでもある。
「「…………」」
目が合うと、彼女は決まりが悪そうに視線を逸らした。けれど、立ち去るわけでもなく、再びこちらに視線を戻し、不満そうな顔で口を開く。
「……何でまたいるのよ?」
……はい?
思いもよらぬ第一声に、俺は思わず眉を顰める。
「いつもここで寝てるって言っただろ。お前こそ何でまた来たの?」
「……別に」
呟くように答えて、舞岡は階段を上がってきた。
彼女は寝転がっている俺のそばに腰を下ろし、制服のスカートを整えながら、膝を抱える。別にとか言いながら何故座るんだ?
舞岡はストレートの髪を指でくるくる巻いたりと、どこか落ち着きがない。何かを言い出せずにいるみたいだ。
しばらく沈黙が続いた後、俺は小さく息を吐いた。このまま放っておくと、彼女の存在が気になって眠れそうにない。
「どうした? また何かあったのか?」
舞岡はちらっと俺を見て、「うん」と小さく頷く。それから、少し不安げに尋ねてきた。
「あんたさ、私のことどう思う?」
何だその質問。唐突過ぎる。それに抽象的で意図を理解しづらい。
「……どうって、好きか嫌いかってこと?」
「うん」
「いや、別に……美人だとは思うけど。他の男子たちも可愛いとか美人だって言ってるのを聞いたことならあるよ」
舞岡とは昨日知り合ったばかりだ。外見以外の情報がほとんどないので、美人だという感想しかない。強いてあげるなら眠るのを邪魔してきた女っていう印象くらいだ。あと、猫を被っているのは知っている。
「悪い印象は? 私の噂を聞いたりとか」
「特にないけど」
「……何かさ、私のこと嫌いな女子が多いみたいなのよね」
「マジか」
彼女の声は少し沈んでいた。
相談なのかただ愚痴を聞いて欲しいのかわからないが、俺に解決出来る内容ではなさそうだ。
そもそも彼女が嫌われているというのが疑問だ。教室で彼女の姿が目に入ることはあるが、嫌われそうな言動を取っているとは思えない。当たり障りなく過ごしていると思う。むしろ猫を被っているので外面は良い。
「何で嫌われてるんだ?」
俺は体を起こして、背中を壁に預けた。少しは話を聞いてやるか。あまり冷たくあしらって怒らせても面倒だしな。
「何か嫉妬ってやつ? 私が男にモテるから気にくわないみたい」
「お前そんなにモテるのか」
「まあね。結構告白されたりするし」
「へえ……」
考えてみれば、普通に納得出来る話だ。顔は物凄く綺麗だし、小柄だけど細身でスタイルも良い。おまけに普段の彼女はにこにこと笑顔を振りまいていて、雰囲気も柔らかい。男子たちが好きになるのもわかる。
「やっぱり異性にモテると同性に嫌われたりするんだな」
「うん。まあ中学のときからそういうのは結構あったから、またかって感じなんだけど」
「なるほど。それはモテる女の宿命ってやつだ。気にすんな」
「気になるっつの。慰めるの下手くそか」
どうやら俺は彼女の求める役割りを果たせなかったみたいだ。特に良いことを言ったとは自分でも思っていないし、そもそもあまりやる気がない。
だけど、そんな適当な言葉でも彼女の気分は多少は和らいだみたいで、表情が僅かに綻んだ。
「何か実害はあるのか?」
念のため、被害状況を聞いておく。さすがに虐められたりしていたら可哀想だからな。
「実害って程でもないけど……悪い噂をされたり……たまに嫌味を言われるとその度に傷付くしムカつくじゃない? そのくせ中途半端に友達づらされるのも嫌」
「それは確かに嫌だなぁ」
「でしょ?」
実害はともかく嫌な内容だった。彼女の言う通り、嫌味を言ったり悪い噂をするような奴らに友達づらもされたくない。
「お前せっかく猫を被ってるのに機能してないんだな」
「そうなのよ。でも猫を被らないともっとやばいじゃない?」
「そうだね」
大して仲良くもない相手であれば、猫を被るに越したことはないだろう。とりあえず悪い印象を与えなくて済む。社会を生きる知恵だ。
「まあモテないよりはモテる方が得だからいいんじゃないか?」
「うーん、でも興味ない男にモテても嬉しくないし……」
「……もしかしてそっち系っすか?」
「違うわよ」
「違うのか」
まさかの男に興味のない百合の人なのかと勘繰ったが違ったみたいだ。こいつがそっち系だと泣く男も多そうだ。違っていて良かった。
「そうじゃなくてさ、好きな人に好かれないと意味ないじゃん。両思いだから嬉しいし幸せなんでしょ?」
「……まあ、そうだね」
驚くほど純粋で眩しい正論だ。こいつって、恋愛に対しては物凄く誠実だな。意外とかなりまともな価値観だ。
「……って昔お母さんが言ってたし」
「母親情報かよ。俺の感心を返せ」
「私だって何となくそう思ってるもん! しょうがないでしょ!? 恋愛したことがないからお母さんの教えが全てなのよ!」
普通は恋愛したことがなくても、高校生にもなって母親の教えが全てになどなるだろうか。例えば友達の恋愛話なんかを参考にしそうなものだが。
……友達いないのか。こんなところに1人で来るくらいだしな。
「まあ元気出しなよ」
「……? うん」
舞岡は腑に落ちないという風に眉根を寄せながら頷いた。
興味のない多数の異性にモテるより、好きな人1人に好かれて両想いになりたい。そんな彼女の理想はとても良く理解出来る。俺だってそう思ってる。
だけど、どっちにしてもモテないよりはモテる方が有利だろう。好きな人にも好かれやすいってことだからな。
彼女の場合、美人であるが故に知らない男から好意を寄せられることが普通より多く、その為、言い寄られても何も感じないどころか、むしろ面倒に思うのかもしれない。
「それで、好きな男は居るのか?」
「居ないわよ。だから興味ないの」
「ふーん」
結局、好きな男がいないので、男にいくら好かれても意味がないし、それで女子に嫌われるのは心外だ、ということらしい。その通りなんだけど、贅沢な奴である。
しかし、彼女と話していると、悪い奴ではないように思えてきた。素直だし、人間性も割とまともだし、考え方も理解出来る。
「はあ……面倒臭いなあ……」
舞岡が深い溜め息を吐いた。
「猫を被っても無理ならしょうがないしな」
「そうなのよね……だって何も悪いことはしてないんだからどうしようもないもん」
「とにかく、ある程度は仕方がないと思って適当に聞き流しとけば? モテるのは良いことだし、一種の有名税だと思って」
「うん……まあ、そうよね」
舞岡の表情は晴れなかった。そりゃそうだ。何も解決していないし、諦めろって言っているようなものだからな。俺に人間関係の改善案や慰めの言葉など期待しないで欲しい。全然向いてない。
とは言え、これが結論だ。これ以上だらだらと話し合う意味はない。寝る時間も無くなる。
「ま、本格的に虐められたときは助けてやるから言いなよ」
そう言って、ごろんと床に背を倒した。
「え?」
少し驚いたような、戸惑ったような声だった。見ると、舞岡はきょとんと目を見開いて俺を凝視していた。
「何だよ」
「いや、らしくないこと言うからビビるじゃん」
「お前はどんな目で俺を見てるんだ」
心外だ。虐めには当然立ち向かうし、解決に努める。
「じゃあもし虐められたらそのときは頼むわね。まあさすがにないと思うけど」
「へいへい」
もし彼女が虐められたときはマジで助けてやろう。女子なら2人くらいなら倒せるだろうし。
……プロレスラーみたいな女とか来ないだろな? 神取みたいな奴だったら無理なんだが。
「ありがとね」
舞岡がふわりと微笑む。教室で振りまいている笑顔よりもずっと柔らかくて眩しい。俺の胸の奥が不意に熱を帯びる。
「じゃあ俺は寝るから」
「……うん。もう行くね」
「はいよ」
俺が小さく手を振ってやると、舞岡は立ち上がり、静かに階段を下りていった。
去り際の彼女の背中は、少しだけ軽やかになっていたと思う。
何となく名残惜しそうにも見えたけど、今日はもういいだろう。眠いし。




