1話 出会い
「はあ……もぉ〜! 何なのよあの噂! ほんと意味わかんない……! まだ男と付き合ったことすらないのに!」
階下から響いてきた苛立ち交じりの声に、うとうとしていた意識がぼんやりと覚醒する。
乱暴に階段を踏む足音が、一段ずつ迫ってくる。……こっちに来るのか? 嘘だろ……?
ここは特別教室棟の端だ。普通教室からは、歩いてくるには面倒なくらい離れている。その上、俺がいる最上階の踊り場なんて、施錠された屋上の扉があるだけで他には何もない。こんなところにわざわざ来る奴なんて、いるはずがなかった。
だからこそ、昼寝をするにはうってつけの場所だったのに。
「さっきの超睨んできた奴も何なの? 怖いんだっつの!」
声の主はこんなところに人がいるなどとは微塵も思っていないのだろう。
できれば鉢合わせたくないが、逃げ道はない。何より眠気で体が重く、動く気にもなれない。
「もう最悪だし……!」
……ここは寝たフリをしておこう。
右腕を枕にし、壁側を向いて目を閉じる。先客が寝ているのを見れば、すぐに引き返してくれるはずだ。
階段を上がってきた足音は、すぐそこまで来るとぴたりと止まった。
あーあ……絶対俺のこと見つけたわ。どうかこのまま立ち去ってくれますように。
……
……
体感で二、三分は経ったと思う。
背後からは声も、足音も聞こえない。遠くから微かに生徒たちのざわめきが届くだけだ。
……さっきの女子はもう立ち去ったのだろうか。というか、まだいたら普通に怖いんだけど。
このままだと気になって落ち着かない。さっさと誰もいないことを確認して、安心して眠りたい。
俺は恐る恐る振り返った。
「……おわっ!?」
至近距離に女の子の顔があって、思わず仰け反る。
女子生徒は俺の背後に膝をつき、じっとこちらを覗き込んでいた。
セミロングの黒髪に、ぱっちりとした大きな目。鼻筋が通っていて、唇は小さく整っている。……めっちゃ美少女だ。
……待てよ? この顔には見覚えがある。
確か、同じクラスの舞岡麗奈だ。男子連中が可愛いだなんだと騒いでいた気がする。
「やっぱり起きてたのね」
舞岡は不機嫌そうに眉を寄せる。
「……」
俺は再び壁に向き直り、目を閉じた。普段の俺なら爽やかな笑顔でも作って挨拶するところだが、今はそんな気力がない。
「さっきの聞いてた?」
舞岡は構わず尋ねてきた。無視していたらどこかへ行ってくれないだろうか。
「ねえ、聞いたの?」
「……」
「ねえってば」
「……」
「起きてるんでしょ?」
しつこいな! 何で黙ってるのに何度も話しかけてくるんだ!
……うん、俺が一度振り向いてしまったからだな。
面倒だが仕方ない。俺は背を向けたまま答える。
「……何のことですか」
「聞いたのね?」
おかしいな。とぼけたはずなのに、なぜか確信されたぞ。
「……聞いてないですけど」
「何を聞いたの?」
「だから何も聞いてないですって」
「ここにいたら聞こえるでしょ?」
「不思議と何も聞こえないですけどね」
「正直に言いなさい」
「正直に言ってます!」
何でもいいから早く納得してどこかへ行ってくれないだろうか。
「……とにかく知らないです。おやすみなさい」
無理やり会話を打ち切り、目を閉じる。
「で、聞いたんでしょ?」
「……」
駄目だ。こいつ、全然引き下がる気がない。まあ実際、聞こえてたんだけど。
俺はため息をつくと、ゆっくりと体を起こした。くそ、何も聞かなかったことにしてやり過ごしたかったのに。
「……だったら何? ここで寝てたら勝手に聞こえてきたんだけど」
「何であんた、こんなところで寝てるのよ?」
「俺の勝手だろ。いつもここで寝てるんだよ」
ほぼ初対面の相手なのに、ついトゲのある口調になってしまう。俺は昨日も遅くまで勉強していたせいで眠いのだ。
「もしかしてぼっちってやつ?」
「違いますー。ちゃんと友達いますー。眠いからここで寝てるだけですー」
「ふーん。あれ? ていうか、あんた同じクラスの人じゃない?」
ちっ、俺がクラスメイトだと気づきやがった。
「……そうだよ」
「名前何だっけ?」
「三島だ。で? 舞岡さんは何でここに?」
「え? えっと、ちょっと色々あって……一人になれる場所を探してたら、ここにたどり着いてたのよ」
こんなところまで来るなよ……。
「……ふーん。俺がいて残念だったな」
「そうよ。残念極まりないわ」
だったらさっさと別の場所を探せばいいだろ。先客がいたからって不満をぶつけられても困る。
それにしても、違和感がある。
教室での舞岡はおしとやかで、周囲に笑顔を振りまいているような奴じゃなかっただろうか。男子連中が噂していた天使の笑顔はどこへ行ったんだ?
まあ、あんなに愚痴ってたくらいだし、腹に据えかねることがあったんだろうけど。
お節介かもしれないが、一応聞いてみる。
「怒ってたみたいだけど、何かあったのか?」
「いや、まあ……うん……」
舞岡は急に言葉を濁した。まあ、俺なんて赤の他人だしな。
「言いたくないなら言わなくていいよ」
無理に踏み込むつもりもないし。正直に言うとそこまで興味もない。
「……うん」
「それと、次からはちゃんと人がいないか確認してから愚痴りなよ」
「……っ、やっぱり内容も聞いてたの?」
「だから勝手に聞こえてきたんだよ。もう眠るところだったのに」
舞岡は不満そうに顔をしかめているが、不満があるのはこっちの方だ。安眠妨害されたんだからな。
「まあいいわ。それでさ……」
舞岡は気まずそうに視線を逸らし、頬を掻く。
「さっき聞いたことは誰にも言わないでほしいんだけど……」
口止めしたいのか。
そもそも、俺を見つけた時点で引き返してくれれば、誰が愚痴ってたかなんて分からなかったのに。
「別に言わないよ、興味ないし。つーか別にバレても大したことなくないか? 嫌なことがあったら愚痴を言うのも当然だろ?」
「そうかもしれないけど……いつもは猫を被ってるってバレちゃうじゃない」
「そうだね」
普通に猫を被ってることを認めたな……。もう俺の前で取り繕う意味はないということか。
だけどこいつも苦労してるんだな。自分なりにクラスメイトと上手くやっていこうと気を使ってるんだろう。高校生であれだけビジネス笑顔ができるんだから立派なものだ。
「偉いぞ。君は社会人の鑑だ。その調子で頑張るんだぞ」
「えっ……うん。高校生だけどね」
肩を軽くポンポンと叩いて労うと、舞岡は戸惑いながらも小さく頷いた。
「ってことで、俺は寝るから」
「……」
俺は再び体を倒し、腕を枕にして横になる。
舞岡はむっと眉を寄せ、何か言いかけてから、諦めたようにため息をついた。
「はあ……わかったわよ。さっき言ったこと守ってよね」
「はいはい」
俺が適当に返事をすると、舞岡は不服そうな表情のまま立ち上がり、階段を下りていった。
あいつが愚痴をこぼしていたことなんか、わざわざ言いふらすわけがない。どうでもいいし、大して面白くもない。
それに、猫を被るくらい俺もやってるからな。




