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普通とは?(前)

【イーグルのマンション】


時刻は、まもなく午前九時になろうとしていた。


「いやああああっ!」


 悲鳴とともに、亜沙美は目を覚ました。


 激しく上下する胸。乱れた呼吸。額には、じっとりと汗が浮かんでいる。


 夢の中で、亜沙美は車に轢かれそうになっていた。

 迫り来る車体。逃げ場のない道路。迫る衝撃。


 その瞬間、足元の地面が音もなく割れた。


 亀裂は瞬く間に広がり、亜沙美の立っていた場所を呑み込んでいく。踏みとどまることもできず、彼女は暗闇の中へと落ちていった。


 どこまでも続くような闇。

 何かにつかまろうと伸ばした手は、何も掴めない。

 そして――。


「……はぁ、はぁ……」


 目の前に広がっているのは、見慣れない天井だった。


 亜沙美はしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと周囲を見回した。


「ここは……」


 朝日が差し込む部屋。隣に置かれた家具。柔らかなベッド。


 ここは、自分とロミータが暮らしているマンションではない。

 イーグルのマンションだ。


「……そっか。私……」

挿絵(By みてみん)

 昨夜の出来事が、少しずつ頭の中によみがえってきた。

 隣から衣擦れの音が聞こえた。


「亜沙美? どうしたの?」


 同じベッドで眠っていたイーグルが、亜沙美の悲鳴に気づいて目を覚ましたらしい。


 まだ眠気の残る顔で上半身を起こすと、心配そうに亜沙美の顔をのぞき込んだ。


「すごい声だったけど、大丈夫?」


「……うん。ごめんなさい。夢を見ただけですから」


「悪い夢?」


「……うん」


 亜沙美は小さくうなずいた。

 イーグルは彼女の額に手を当てた。


「熱はなさそうね。うなされていたから、少し心配したわ」


 そう言ってから、イーグルはベッドを降りた。


「コーヒーでも入れてくるわ。少し落ち着きなさいね」


「……ありがとうございます」


 キッチンへ向かうイーグルの背中を見送り、亜沙美はもう一度、ベッドの上に視線を落とした。


 昨夜、何があったのか。


 思い出したくないわけではない。

 ただ、思い出すことが怖かった。


 亜沙美はそっと下腹部に手を添えた。

 そこに残る違和感から、昨夜の出来事が現実だったことを思い知らされる。


 イーグルに抱きしめられたこと。

 優しく口づけられたこと。


 そして、自分も彼女を拒むことなく、その腕の中に身を委ねてしまったこと。


「……私、何やってるんだろう」


 かすれた声が、誰もいない寝室に落ちた。

 ロミータの顔が浮かぶ。


 いつも隣で笑ってくれた、大好きな人。

 一緒に暮らし、食事をして、何気ない会話を交わしてきた人。


 これからも、ずっと一緒にいたいと思っていた人。

 そのロミータが、今も病院のベッドで生死の境をさまよっている。


 事故に遭ったと聞いたとき、亜沙美は頭の中が真っ白になった。


 どうしてロミーが。

 どうして、こんなことに。


 何も考えられなかった。何もできなかった。


 そんな亜沙美を、イーグルは家に招き、食事も喉を通らない彼女を気遣い、優しく抱きしめてくれた。


 その温もりに、亜沙美はすがってしまった。


 心が壊れてしまいそうだったから。

 一人では耐えられなかったから。


 けれど、だからといって――。


「……ロミー、ごめんね」


 謝罪の言葉を口にしても、返事はない。


 当然だ。

 ここにロミータはいないのだから。

 亜沙美は膝を抱え、顔を伏せた。


 昨夜の自分を責める気持ちと、あのときの温もりに救われたという気持ち。その二つが胸の中でぶつかり合い、どちらか一方を選ぶことさえできなかった。


 ロミータを愛している。

 その気持ちに嘘はない。

 それなのに、自分は――。


 考えようとするたびに、胸が苦しくなった。

 今はまだ、何も答えを出せそうになかった。

     


 数分後。


「はい、どうぞ」


 イーグルがマグカップを差し出した。


「ありがとう……ございます」


 亜沙美は両手でカップを受け取った。


 温かなコーヒーの香りが鼻をくすぐる。

 イーグルはベッドの端に腰を下ろし、自分のカップを手に取った。


「少しは落ち着いた?」


「……はい」


 亜沙美はうつむいたまま、小さく答えた。


 沈黙が流れる。

 何か話さなければ。

 そう思うのに、どこから話せばいいのか分からない。


 やがて亜沙美は、カップを持つ手に力を込めた。


「あの……」


「ん?」


「やっぱり昨日のことって、変じゃないですか?」


 イーグルは不思議そうに首をかしげた。


「何が変なの?」


「だって……」


 亜沙美は顔を上げた。


「ロミーちゃんが事故に遭ったんですよ? しかも、命が危ないって言われて……。私がどれだけ動揺していたか、イーグルさんだって分かっていたはずです」


「ええ。分かっていたわ」


「それなのに、その日の夜に私に手を出してくるなんて……。変じゃないですか!」


 思わず声が強くなった。


 言い終えた亜沙美は、はっとして口をつぐんだ。

 イーグルは怒るでもなく、しばらく彼女の顔を見つめていた。


「私は、変だとは思っていないわ」


「……え?」


「私は今でもロミーを愛している。あの子は大切な仲間であり、ライバルでもある。そして、あなたのことも大好きよ」


 イーグルはカップをテーブルに置いた。


「だからといって、ロミーが事故に遭ったことを利用して、あなたを寝取ろうとしたわけじゃないわ」


「で、でも……」


「あなたがどれだけ苦しんでいたか、見ていたもの。食事も喉を通らなくて、何も手につかなくて……。今にも心が壊れてしまいそうだった」


 イーグルの声は穏やかだった。


「そんなあなたを抱きしめて、少しでも慰めてあげたいと思った。それの何が変なの?」

挿絵(By みてみん)

「それは……」


 亜沙美は言葉に詰まった。


 イーグルの言うことが、まったく理解できないわけではない。


 昨夜、自分がどれほど救われたと感じたのか。

 どれほど彼女の温もりにすがりたかったのか。


 それは、亜沙美自身が一番よく分かっていた。

 けれど。


「普通じゃないです!」


 その言葉を聞いた瞬間だった。

 イーグルの表情から、穏やかさが消えた。


「……普通じゃない?」


 低くつぶやく。

 その声に、亜沙美は思わず顔を上げた。


「イーグル先輩……?」


 イーグルの脳裏に、遠い昔の光景がよみがえった。

     



【四年前 イーグル家】


 まだ、彼女がVTuberとして活動を始める前のこと。


 自分の将来について両親と話し合ったとき、イーグルはVTuberになりたいと告げた。

 しかし、両親の反応は冷たかった。


『VTuberなんて普通じゃない仕事で、生きていけるわけがないだろう!』


『バカなことを言っていないで、普通の仕事に就きなさい』

挿絵(By みてみん)

 何度も聞かされた言葉。

 娘の将来を心配してのことだったのかもしれない。


 けれど、当時のイーグルには、自分の夢も生き方も、頭ごなしに否定されたようにしか思えなかった。


 自分が何をしたいのか。

 どんな人生を歩みたいのか。


 それを理解しようともせず、ただ「普通」を押しつけてくる両親に、イーグルは反発した。


 そして、着の身着のまま家を飛び出し、日本に来てVTuber事務所「コンプリ」の門を叩いた。


 絶対に結果を出してやる。

 自分の選んだ道が間違いではなかったと、証明してやる。


 その決意を胸に、彼女はVTuberとして活動を続けた。


 思うようにいかないこともあった。

 失敗もした。

 それでも諦めずに努力を重ねた。


 やがて彼女のチャンネル登録者数は増え、今ではコンプリの所属VTuberの中でトップを誇るまでになった。


 自分が選んだ道で、結果を出したのだ。


 だが、両親とは、それ以来一度も連絡を取っていない。


 あの日、投げつけられた「普通」という言葉は、今も心の奥に残っていた。


 そして今。

 大切な人を失うかもしれない恐怖に震えている亜沙美から、再び同じ言葉を聞かされた。


 イーグルは、ゆっくりと口を開いた。


「……じゃあ、聞くけど」


 先ほどまでとは違う、張り詰めた声だった。


「普通じゃないって、どういうこと?」


「え……?」


「あなたにとって、普通じゃないってどういう意味なの?」


 亜沙美は答えられなかった。

 イーグルは、さらに問いかけた。


「あなたとロミーは、女の子同士で愛し合っているでしょう?」


「……はい」


「世間から見たら、それだって変だと言う人はいるわ。普通じゃないって言う人もいるでしょうね」


「それは……」


「じゃあ、あなたは自分たちのことも、普通じゃないと思っているの?」


「ち、違います! 私は、ロミーちゃんのことを真剣に……!」


「愛しているんでしょう?」


 イーグルの言葉に、亜沙美は口を閉ざした。


「あなたはロミーを愛している。私はロミーを愛しているし、あなたのことも大好き。それなのに、私があなたを慰めようとしたことは普通じゃないの?」


「…………」


「あなたが誰を愛するのか。私が誰を愛するのか。それを、世間が決めることなの?」


 亜沙美は何も答えられなかった。


 イーグルの言葉に納得したわけではない。


 自分の考えが間違っていると認めたわけでもない。


 ただ、今の亜沙美には、彼女を納得させられるだけの答えを出すことができなかった。


 ロミータの事故を知らされたときから、心はずっと不安定なままだ。


 昨夜の自分の行動を後悔している。

 けれど、あの温もりに救われたことまで否定できるのかと問われれば、それにも答えられない。


 自分が何を感じ、何を望んでいるのかさえ、今はうまく整理できなかった。


「もしもよ、事故にあったのがロミーじゃなく私で、貴女を慰めようとしたのもロミーだったら、恐らくあの子も貴女に同じようなことをしたと思うわよ?」

挿絵(By みてみん)

「たぶん、そうだと思います……ごめんなさい」


 ようやく口から出たのは、それだけだった。


「とりあえず、それ飲んじゃいなさい」


「はい……」


 イーグルは、それ以上何も言わなかった。


 朝の光が、二人の間に静かに差し込んでいた。

 



 続く。

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