普通の生活
【夜のメルルのマンション】
リビングのソファに腰掛けたメルルとすもらは、テーブルを挟んで向かい側に座る少女を見つめていた。
銀色の髪を編み込み、紺色の帽子を目深にかぶった少女。紺色のパーカーにジーンズという、どこか少年のような服装をしている。
彼女の名前はパイ子。
今日からしばらく、このマンションで暮らすことになった少女だった。
「えっと、改めて自己紹介するね。私はメルシー・スカイ。VTuber名は夜空メルル。よろしくね、パイ子ちゃん」
「私は日影すみれ。VTuber名はすもらっす。よろしくね」
二人の自己紹介を聞いたパイ子は、こくりと頷いた。
「よろしくお願いします、マスターメルル。すもら」
「……ん? マスター?」
すもらが首を傾げる。
メルルも少し不思議そうな顔をした。
「パイ子ちゃん、どうして私のことをマスターって呼ぶの?」
「マスターリオンから、そう呼ぶように指示されています」
「ああ、リオンさんからね」
メルルは納得したように頷いた。
パイ子にとって、リオンは目覚めて最初に出会った人物であり、従うべき相手だった。そして、リオンがしばらく会えなくなるため、代わりにメルルをマスターとして従うよう命じられたのである。
「ところで、二人ともVTuberなんですよね?」
「そうだよ。私もすもらちゃんもVTuberをしてるの」
「VTuber……。顔を隠して活動する配信者ですね?」
パイ子の言葉に、二人は顔を見合わせた。
「まあ、間違いじゃないけど……」
「顔を隠すためだけにやってるわけじゃないっすよ?」
パイ子は二人の顔を交互に見つめた。
「お二人とも顔立ちが整っていますし、スタイルも良いと思います。わざわざ顔を隠す必要があるのでしょうか?」
「うーん……それだけが理由じゃないんだよね」
メルルは苦笑しながら、VTuberという活動の楽しさや、配信を通して視聴者と交流することについて説明した。
姿を見せずに活動できることは確かに利点だが、それだけが魅力ではない。自分の好きな姿で活動できることや、視聴者と一緒に楽しめることなど、理由は人それぞれなのだ。
「なるほど。顔を隠すこと以外にも利点があるのですね」
「そうそう! 興味があるなら、私が教えてあげようか?」
すもらが身を乗り出した。
ところが、パイ子はすもらを見て、きっぱりと言った。
「いえ、結構です。マスターメルルの手解きなら別ですが、あなたから教わる必要はありません」
「……は?」
すもらの笑顔が固まった。
「ちょ、ちょっと! なんで先輩ならよくて、私だと駄目なんすか!」
「マスターメルルに従うよう命令されていますので」
「いや、そういう問題じゃないっすよね!?」
「すもらちゃん、落ち着いて」
メルルが慌ててすもらをなだめる。
しかし、パイ子は二人の様子を見ても、なぜすもらが怒っているのか理解できないようだった。
彼女にとって、マスター以外の命令に従う必要はない。それは好き嫌いの問題ではなく、従うべき相手を定めたプログラムに従っているだけなのだ。
そんなやり取りをしながら話を続けていたとき、すもらはテーブルに置かれたパイ子の名刺に目を留めた。
「そういえば、パイ子ちゃんって二十歳なんすね」
「はい。公表されている年齢は二十歳です」
「……うーん。なんか、とても同い年って雰囲気じゃないっすけどね。本当に二十年も生きてきたんすか?」
何気なく尋ねた、すもらの言葉。
それに対するパイ子の返答は、二人の予想を大きく裏切るものだった。
「いいえ。パイ子は生まれて、まだ一週間です」
「…………え?」
メルルとすもらの声が重なった。
「い、一週間!?」
「どういうことっすか!? 二十歳じゃないんすか!?」
「公表上の年齢と、実際に生まれてから経過した時間は異なります」
パイ子は淡々と答えた。
「では、今までどこで暮らしていたの?」
メルルが慎重に尋ねると、パイ子は少しだけ視線を落とした。
「遠い島です。パイ子も詳しい場所は知りません。島の密林にある地下施設で生み出されました」
「地下施設……」
メルルの表情から笑みが消えた。
すもらも、それ以上は軽々しく質問できなくなった。
普通の家庭で育った少女ではない。その言葉だけで、二人には彼女がどのような場所から来たのか、想像することすら難しかった。
「じゃあ、パイ子ちゃん……布団で寝たり、お風呂に入ったこともないの?」
「データから目的や方法は理解しています。しかし、実際に経験したことはありません」
「ええっ!?」
メルルは思わず声を上げた。
「そ、それなら私が教えてあげるっすよ! お風呂の入り方も寝方も、何でも教えてあげる!」
「必要ありません」
「またそれっすか!?なんで私だけ駄目なんすか!」
「マスターではないからです」
「うわあああっ! もう、なんなんすか、この子!」
すもらはソファに倒れ込んだ。
メルルは困ったように笑いながら、パイ子に手を差し伸べた。
「それじゃあ、私が教えてあげるね。パイ子ちゃん、こっちにおいで」
「お願いします、マスターメルル」
パイ子は素直に立ち上がり、メルルの後についていった。
リビングに一人残されたすもらは、二人の背中をじっと見送る。
「……なんなんすか、ほんとに」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
【お風呂場】
浴室では、メルルが浴槽にお湯を張りながら説明を続けていた。
「お風呂はね、こうやってお湯に浸かって、身体の汚れを落としたり、疲れを取ったりする場所なの」
「身体の洗浄と疲労回復を目的とした設備、ということですね」
「うん、そういうこと!」
パイ子は浴室の設備を一つずつ観察していた。
シャワー、蛇口、シャンプー、ボディーソープ。どれもデータとしての知識はあるが、実際に使うのは初めてだった。
「身体を洗うときは、タオルにボディーソープをつけて、こうやって優しく洗うの。頭はシャンプーを使ってね」
メルルは実際に使い方を見せながら、丁寧に教えていく。
パイ子はその動作を静かに見つめ、説明された手順を一つずつ理解していった。
「一緒に入りましょうか?」
メルルが尋ねると、パイ子は迷うことなく答えた。
「マスターと一緒であれば」
「ふふっ、分かった。じゃあ、一緒に入ろうね」
やがて浴室から楽しそうなメルルの声が聞こえてくると、リビングに残されたすもらは、ますます不機嫌になっていった。
「……私だって、教えてあげたかったのに」
ソファのクッションを抱きしめ、すもらは頬を膨らませる。
リオンから頼まれた以上、パイ子を受け入れるつもりではいる。
けれど、せっかくメルルと二人で暮らしているのに、突然やってきた少女に自分だけ仲間外れにされているような気分になるのは、決して愉快なものではなかった。
「……はぁ」
すもらは深いため息をついた。
入浴を終えたパイ子がリビングに戻ってくると、すもらは手に持っていたものを差し出した。
「はい、これ。私の予備のパジャマっす。とりあえず、今夜はそれを着て寝てください」
「ありがとうございます」
パイ子は受け取ったパジャマを見つめた。
ピンク色の生地に、ウサギやニンジンの模様が散りばめられた可愛らしいデザインだった。
メルルに促されるまま着替えを済ませたパイ子は、袖や裾を確かめるように引っ張り、服の構造を確認し始めた。
「あれ? どうかしたの、パイ子ちゃん?」
メルルが尋ねると、パイ子は真剣な顔で二人を見た。
「一つ、質問があります」
「な、何っすか?」
「このような防御力の低い服を着て、睡眠を取るのですか?
メルルとすもらは、そろって首を傾げた。
「襲撃を受けた場合、どのように対処するのでしょうか? 銃やナイフは、どこに収納してあるのですか?」
「ちょ、ちょっと待って!」
メルルが慌てて両手を振った。
「普通、寝るときに銃やナイフなんて持たないよ!?」
「そうなのですか?」
パイ子は不思議そうに首を傾げる。
「では、無防備な状態で敵に侵入された場合、抵抗手段がないのでは?」
「敵って……どんな生活を送るつもりなんすか!?」
すもらが思わず叫んだ。
パイ子は少し考えてから、答えた。
「マスターリオンからは、普通の生活を送るように指示されています」
「……普通の生活には、銃もナイフも
必要ないっすよ」
すもらが呆れたように言うと、パイ子はメルルに視線を向けた。
「マスターメルルも、同じ意見ですか?」
「うん。普通の生活では、寝るときに武器を用意したりしないよ」
「……そうですか」
パイ子は納得したのか、しないのか分からない表情で頷いた。
それから、もう一度パジャマの袖を確認する。
「しかし、この服の防御性能は極めて低いですね……」
「まだ言うんすか!?」
すもらの叫びが、夜のマンションに響いた。
その後、メルルはパイ子を連れて自分の寝室へ向かった。
三人でメルルのベッドに寝るには、さすがに窮屈すぎる。結局、今夜はメルルがパイ子と一緒に眠ることになった。
「すもらちゃん、ごめんね。今夜はパイ子ちゃんと一緒に寝ることにするね」
寝室の前でメルルが申し訳なさそうに言った。
「……別にいいっすよ。パイ子ちゃんは、まだ普通の生活に慣れてないんでしょ?」
「うん。お風呂も初めてだったみたいだし、寝るときもそばにいてあげたほうが安心かなって」
「そっすね。先輩がそうしたいなら、私は構わないっすよ」
すもらは笑顔を作ってみせた。
「ありがとう、すもらちゃん」
メルルがパイ子を連れて寝室に入ろうとした、そのときだった。
「……あ、先輩」
「ん? どうしたの?」
「リオンさんには、ちゃんと感謝してるっすからね」
突然の言葉に、メルルはきょとんとした。
「えっ? うん、それは分かってるけど……」
「だって、リオンさんがいなかったら、先輩は今も前社長に縛られてたかもしれないじゃないっすか。だから、リオンさんの頼みなら、私だってできるだけ協力したいんすよ」
すもらは少しだけ視線を落とした。
「パイ子ちゃんをしばらく預かってほしいって言われたときも、断るつもりはなかったっす。恩返しになるなら、それくらい我慢しなきゃって思ったし」
「すもらちゃん……」
「でもさぁ……」
すもらは顔を上げ、寝室の中を覗き込むパイ子を見た。
「なんで私の言うことは聞いてくれないんすかね!?」
「マスターではないからです」
間髪入れずに返ってきた答えに、すもらの頬がぴくりと引きつった。
「ほらぁ! そういうところっすよ!」
「すもらちゃん、落ち着いて……」
「メルルちゃんには素直についていくのに、私が教えてあげるって言ったら断るし! お風呂も一緒に入ってあげようとしたのに、先輩としか入らないし!」
「マスターと一緒であれば、問題ありません」
「だから、それが問題なんだってばぁ!」
すもらの叫びが廊下に響いた。
パイ子は不思議そうに首を傾げている。どうやら、自分の言動がすもらを怒らせている理由が、本気で分からないらしい。
メルルは困ったように笑いながら、すもらの肩に手を置いた。
「ごめんね。私も、できるだけ三人で仲良く暮らせるようにするから」
「……約束っすよ?」
「うん、約束」
「絶対っすからね!」
「分かったってば」
ようやく納得したのか、すもらは渋々頷いた。
メルルはもう一度「おやすみ」と告げ、パイ子と一緒に寝室へ入っていった。
扉が閉まる。
静まり返ったリビングで、すもらはソファに腰を下ろした。
「……はぁ」
クッションを抱きしめ、天井を見上げる。
リオンには恩がある。だから、パイ子を預かること自体は仕方がないと思っている。
けれど、だからといって、何もかも我慢できるわけではない。
「先輩と二人で、のんびりラブラブ生活を送るはずだったのになぁ……」
ぽつりと呟き、すもらは頬を膨らませた。
「……いつまで続くんすかね、これ」
もちろん、今すぐパイ子を追い出すつもりはない。
リオンから頼まれたことだし、メルルもパイ子のことを放っておけないのだろう。
それでも、メルルの隣で眠るパイ子の姿を想像すると、胸の奥がもやもやする。
「……私だって、メルル先輩と一緒に寝たいっすよ」
誰もいないリビングで、すもらは小さく呟いた。
そして、クッションに顔を埋める。
こうして、パイ子を迎えた最初の夜は更けていった。
メルルとの生活を守りたいすもらと、普通の生活を知らないパイ子。
二人の間に横たわる溝が、これからどう変化していくのか――それは、まだ誰にも分からなかった。
続く。




