普通とは?(後)
【メルルのマンション】
「……うーん」
すもらはベッドの上で寝返りを打ち、天井を見つめた。
いつもなら、目が覚めた瞬間から元気いっぱいだ。
隣で眠るメルルに抱きついたり、優しい声を掛けたり、キスをしたり。
あるいは、朝食の相談をしながら、今日一日の予定を立てたり。
そんな何気ない時間が、すもらにとっては何よりも幸せだった。
けれど、今朝は違う。
メルルの隣には、パイ子がいる。
昨日、突然やって来た少女。
メルルにだけ懐き、すもらにはどこかよそよそしい態度を取る少女。
しかも、メルルと一緒に寝ることまで許されている。
「……ううっ。面白くない!」
すもらは枕を抱きしめた。
別に、メルルが誰かを大切にすること自体が嫌なわけではない。
メルルが優しい人だということは、誰よりもよく知っている。
困っている人がいれば放っておけないし、頼まれればできる限り力になろうとする。
そんなメルルだからこそ、すもらは好きになったのだ。
それでも。
「……今日は、どうやって先輩のところに行こう」
いつもなら何も考えずに部屋へ入れる。
しかし、今はメルルの隣にパイ子がいる。
そこへ自分が入っていったら、また気まずい空気になるのではないか。
そんなことを考えてしまう。
数分間、あれこれと悩んだ末、すもらは一つの考えにたどり着いた。
「そうだ。先輩の好きな紅茶を入れて、持っていけばいいんすよ!」
名案を思いついたとばかりに、すもらはベッドから飛び起きた。
紅茶を入れるためにキッチンへ向かう。
これなら自然にメルルの部屋へ入れるはずだ。
そう考えながらキッチンに足を踏み入れたすもらは、すぐに足を止めた。
「……あれ?」
先客がいた。
灰色の長い髪に、紺色の帽子。
パイ子がキッチンの棚を開けたり、引き出しの中を確認したりしていた。
「……何やってるんすか、あんた?」
思わず警戒した声が出た。
パイ子は振り返り、淡々と答えた。
「武器になりそうなものを探しています」
「……は?」
「昨日も説明したと思いますが。敵が攻めてきた場合、反撃できるようにするためです」
そう言って、パイ子は手にした包丁を見せた。
「この家には普通の包丁しかありませんでした」
「ちょ、ちょっと待って!」
すもらは慌てて声を上げた。
「普通の家にそんなものがあるわけないでしょ! 銃とか軍用ナイフとか、そんなのが置いてあるマンションなんて普通じゃないっす!」
「……その意味が、私にはよく分かりません」
「だからね~」
すもらは頭を抱えた。
「先輩のマンションに重火器が置いてあったら変じゃない! そもそも、そんなものを持っていたら警察に捕まるっすよ!」
「そうなのですか?」
「そうなのですか、じゃないっす!」
思わずツッコミを入れてしまう。
しかし、パイ子は本当に理解できていないようだった。
すもらは深く息を吐いた。
「……あんたねえ。普通、人気配信者だからって、命まで狙われたりしないんすよ。嫉妬や妬みを持たれることはあっても、いきなり襲撃されるなんて、まずないっす」
「マスターメルルは、命を狙われてはいないのですか?」
「狙われてないっすよ!」
「……そうですか」
パイ子は少し考え込んだ。
「しかし、人気があるということは、多くの人間から注目されているということです。注目される人間は、敵意を向けられる可能性も高くなります」
「そ、それは……まあ、そうかもしれないけど」
「であれば、身を守る手段を確保しておくことは合理的ではないでしょうか」
「理屈はそうかもしれないけど、普通はそこまでしないし、撃退用の武器も置かないんすよ!」
「普通……」
パイ子が、その言葉を繰り返した。
「あなたは、よくその言葉を使いますね」
「え?」
「普通とは、何ですか?」
すもらは一瞬、返事に詰まった。
だが、すぐに肩をすくめる。
「そんなの、普通は普通っすよ。一般的な生活をしていたら、分かるでしょ?」
「私は俗に言う、一般的な生活をしたことがありません」
「……っ。そうだったっすね」
そう言われると、何も言い返せない。
パイ子が普通の生活を知らないことは、昨日の話で聞いていた。
生まれてから一週間しか経っていないという、信じがたい話も。
それでも、すもらは目の前の少女をどう扱えばいいのか分からなかった。
殺人兵士として生み出された少女。
そんな存在を、VTuberとして活動しているメルルのもとへ預ける。
いったい、リオンという人物は何を考えているのだろう。
「……大体、おかしいじゃないっすか」
すもらの口から、思わず本音がこぼれた。
「殺人兵士として生み出された子を、VTuberをやってる先輩のところに預けるなんて。普通じゃないでしょ。リオンって人も、何を考えてるんすかね……」
その瞬間。
パイ子の手が止まった。
「……今、何と?」
「え?」
「マスターリオンを、侮辱しましたか?」
声は静かだった。
しかし、その響きが変わっていた。
パイ子の顔から表情が消えた。
灰色の瞳が、すもらをまっすぐに捉える。
「な、何よ……」
すもらは思わず身構えた。
「別に、侮辱したわけじゃないっすよ。ただ、いきなりこんなことになったら、誰だって疑問に思うでしょ?」
「マスターリオンは、私を救ってくださいました」
「それは……聞いたっすけど」
「私に名前を与え、命令を与え、生きる場所を与えてくださった方です」
淡々とした声だった。
だが、そこには先ほどまでの無機質な調子とは違う、強い意志が宿っていた。
「マスターを侮辱する者は、生かしておけません」
「……え?」
すもらが言葉を理解するよりも早く、パイ子が動いた。
ほんの一瞬だった。
すもらが反応したときには、すでに背後を取られていた。
「なっ……!」
右腕が首元を押さえ、身動きを封じられる。
さらに、パイ子の手にはボールペンが握られていた。
キッチンから移動する際、テーブルの上にあったものを、いつの間にか手に取っていたのだ。
そのペン先が、すもらの首筋に触れた。
「……っ!」
すもらの背筋に、冷たいものが走った。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 何をする気っすか!」
「先ほども申し上げました」
耳元で、パイ子の声が響く。
「マスターを侮辱する者は、生かしておけません」
冗談を言っている様子はない。
怒鳴り声もない。
感情を爆発させているわけでもない。
極めて静かな息遣い。素人が凶行に走る時のような緊張感も感じられない。
ただ、決められた手順を実行するかのように、淡々と告げている。
それが、何よりも恐ろしかった。
すもらはアスリートとして、全国の舞台で競い合ってきた。
勝負の世界では、嫉妬も妬みも、時には憎悪に近い感情さえ向けられる。
相手の敵意に怯まず、堂々と立ち向かうことは、すもらにとって決して難しいことではなかった。
だからこそ、目の前の少女が見せた冷たい視線にも、最初は怯むつもりなどなかった。
だが、今になってようやく気づいた。
この目は、競争相手を睨みつける目ではない。
怒りに任せて相手を威嚇する目でもない。
敵を仕留めることだけを考える者の目だ。
自分がこれまで見てきた敵意とは、まるで違う。
「……パ、パイ子ちゃん……?」
すもらの声が震えた。
パイ子は答えない。
ペン先を首筋に当てたまま、すもらを押さえ続けている。
その手に、迷いはなかった。
すもらは初めて理解した。
目の前にいる少女は、世間知らずで常識を知らないだけの女の子ではない。
人を殺すために生み出され、そうするための技術を身につけてきた存在なのだ。
そして今、自分はその少女の敵と見なされている。
「……マスターを侮辱する者は、生かしておけません」
パイ子は、もう一度繰り返した。
すもらの首筋に、冷たいペン先が触れている。
その距離は、あまりにも近かった。
「侮辱なんて、していないっす」
「..........................」
パイ子は何も答えない。
すもらの命を奪うことなど、パイ子にとっては造作もないことなのかもしれない。
すもらは息を呑んだ。
いつものように軽口を叩くことも、強気に言い返すこともできなかった。
目の前の少女が、自分とはまったく違う世界で生きてきたことを、身をもって思い知らされたのだった。
――普通とは、いったい何なのだろう。
彼女にとって、マスターを侮辱した者を排除することは、疑問を挟む余地もない当然の行動だったのだから。
そして、その当然が、すもらの命を脅かしていた。
続く。




