3000万の女
【メルル家 マンション】
外では、激しい雨が降り続いていた。
「あ、雨が降ってるのね。すもらちゃん事故に合わないように。それとロミーが大したことありませんように……」
しかし、チャンネル登録者数がまもなく三十万人に届こうとしているメルルにとって、今の生活は決して苦しいものではなかった。
メルルはVTuberとして、それなりの成功者と呼べるところまで来ている。
それに、まだ駆け出しとはいえ、出足好調な新人すもらと一緒に暮らし、生活費も折半している。
少々家賃の高いマンションに住んだとしても、十分にやっていけるだけの余裕があった。
そんなマンションのリビングでは、外の大雨など、ほとんど聞こえない。
「とりあえず、二人ともこっちに来て」
二人をリビングへ通したメルルは、キッチンへ向かうと、ほどなくして三人分のホットコーヒーを用意した。
「砂糖とミルクはどれぐらいいる?」
「ちょっと遊びに来たわけじゃないんだけど?」
茜が呆れたように言う。
するとメルルは、いつもの明るい笑顔を浮かべた。
「もう、そんな言い方しなくてもいいじゃない。いつでも遊びに来たくなったら来てくれていいのよ♪」
「……ありがとう。いただくわ」
茜はそう言ってカップを受け取ると、隣にいる灰色髪の少女へ目を向けた。
「ほら、あんたも飲みなさいよ」
帽子を深くかぶった少女は、茜がコーヒーを口にするのを確認してから、自分もゆっくりとカップへ口をつけた。
その姿を見ながら、メルルが尋ねる。
「それで、茜ちゃん。その女の子はどなた?」
「……私も詳しくは聞いてないんだけど、とりあえず、これとこれを渡すように頼まれているわ」
茜は背負ってきたリュックを下ろす。
その中から、何かがたくさん入った袋と、一通の手紙を取り出した。
「はい」
「読ませてもらいますね」
メルルは手紙を受け取り、封を開けた。
そして、書かれていた文字を目で追っていく。
『メルルへ。
リオンだ。久しぶりだな。
いきなりで申し訳ないのだが、以前働かせてもらった分の報酬を、今、支払ってもらいたい。金額とか、そういうものを要求するつもりは全くない。
あの時の働きの代価として、今、茜が連れてきた女性を、普通の生活をして暮らせるように面倒を見てやってほしいんだ。
もちろん、タダでとは言わん。
三千万円用意した。彼女の養育費だ。
俺は訳あって、彼女と一緒に生活することはできない。
パイコには、メルルをマスターとして敬い、言うことに従うように言ってある。
彼女の詳細について、詳しいことは書けない。
いずれ分かることだが、彼女は普通の女ではない。
それを頭に入れて、彼女の面倒を見てやってくれ。
よっぽど何か困ったことがあったら、茜に聞いてくれ。
俺はある組織から追われている。
しばらくは……そうだな。少なくとも三ヶ月は、俺と連絡を取ろうと思わないでくれ。
それじゃあ、よろしく頼んだぞ。
あと、この手紙は読み終えたら燃やしてくれ』
「………………」
メルルは、しばらく何も言えなかった。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「………な、何よこれ? どういうこと?」
困惑した表情で茜を見る。
「私は詳しいことを聞いてないって言ったでしょ」
茜は淡々と答えた。
「おそらく、その手紙に書いてあることのほうが、私の知っている内容より濃いはずだわ。つまり、私に聞いても何も得られないってことよ」
「そうなの?」
それでも理解が追いつかない。
メルルは思わず、部屋の中にいる灰色髪の少女へ視線を向けた。
少女は何も言わない。
ただ、じっとメルルの目を見返している。
「…………」
その視線には、戸惑いも、恐怖も、喜びもない。
ただ静かに、メルルを見ていた。
「そうだ!忘れるところだった。これ、その子の身分証明書よ……ま、偽造なんだけどね」
「ぎ、偽造身分証!?」
まるで普通の名刺交換の時のように、何食わぬ顔で偽造身分証を渡されたメルルは目を丸くした。
「大丈夫よ。ウチの者の専門家が造ったから、99%バレる心配はないわ」
「そうなの?って、そんな問題じゃ」
慌てているメルルを横目に、茜はホットコーヒーを飲み干した。
「ごちそうさま。それじゃあ、私は帰るけど、後のことはよろしくね」
茜が立ち上がる。
「断っておくけど、本当に私はこれ以上何も知らないんだからね」
「ちょ、ちょっと……」
呼び止めようとするメルルだったが、茜はそのままマンションを出ていってしまった。
静かになったリビング。
メルルは改めて、目の前の少女を見つめる。
少女は、何も言わない。
それどころか、ほとんど身動きすらしない。
まるで人形のように静止したまま、ただメルルを見続けている。
「……あなたの名前は、パイコで合っているの?」
この雰囲気に耐えられなくなったメルルが、ようやく口を開いた。
それにしても、パイコという名前は本名としては少し信じがたい。
だが、少女から返ってきた答えは、メルルの予想とは違っていた。
「はい」
抑揚の少ない声だった。
「リオンは、私のことをパイコと名付けました。その時から、私はパイコです」
「……そ、そうなのね」
「それとメルル、あなたの言うことに従うようにとも言われています」
「…………はぁ」
メルルは思わずため息をついた。
そして、手の中にある手紙へ視線を落とす。
三千万円。
普通の女ではない。
ある組織から追われている。
少なくとも三ヶ月は連絡を取るな。
そして、自分をマスターとして従う少女。
「……どういうことなのよ、もう」
いくら考えても、答えは出てこない。
メルルは小さく息を吐くと、ソファへ身体を預けた。
そして心の中で、今この場にいない人物の名前を思い浮かべる。
(早く帰ってきて、すもらちゃん……)
今のメルルには、すもらの帰宅を待つことしかできなかった。
【都内某大学病院】
オリビア社長のツテを使い、VTuberとしての素性が外部に知られないよう、社長の知り合いが院長をしている大学病院へ緊急搬送されたロミータ。
そこへ、元気なく帽子を深々とかぶった亜沙美がやってきた。
「ここに……ロミーちゃんが……」
小さく呟きながら廊下を歩く。
そして少し進んだところで、亜沙美はゆっくりと顔を上げた。
「…………!」
目に入ったのは、病室の前に集まっている大勢の人影だった。
631号室。
その前には、オリビアをはじめとするコンプリのメンバーが半分以上集まっている。
「社長……みんな……」
電話で話したオリビアの声。
その時に感じた、ただならぬ雰囲気。
そして何より、事故が起きた夜中にもかかわらず、これだけのメンバーが集まっているという事実。
それだけで、亜沙美には分かってしまった。
ロミータの容態は、かなり悪い。
「社長……その、ロミーは……どんな感じなんですか?」
「…………」
誰も口を挟めなかった。
ただ、亜沙美を見つめている。
オリビアは一度目を閉じると、意を決したように口を開いた。
「心を強く持って聞いてね」
「…………はい」
「先ほど、医者から聞かされた話では……かなり良くないらしいの」
亜沙美の表情が強張る。
「私も実際に見たわけではないんだけど……親兄弟が見ても本人だと分からないほどの状態で、いつまで生きていられるかわからないと言われてしまったわ……」
「そ、そんな……ロミーが……」
亜沙美の身体から力が抜ける。
それでも、倒れることだけはなかった。
そして次の瞬間――
「うっ……うぅ……!」
亜沙美の脳内で、学生時代に知り合ってからのロミータとの日々が、フラッシュバックのように流れて行った。
「先輩!」
崩れ落ちそうになった亜沙美は、咄嗟にその身体を支えられた。
その場にいるコンプリのメンバーの中で唯一の後輩。
すもらの胸へ顔をうずめ、亜沙美は堪えていた涙を一気に溢れさせた。
「ロミーちゃん……!」
すもらは何も言わず、ただ亜沙美を受け止める。
その姿を、イーグルもまた黙って見つめていた。
外では、都内に降り続く激しい雨が、夜の街を濡らしていた。
その雨は、朝方まで止むことはなかった。
続く。




