EP 9
地獄を這う男と、血の通った算盤
東京・霞が関。
内調の特命分析室で、狗飼潤は微かに眉をひそめた。
「……妙ですね。太平洋上の海運データに、不自然なノイズが混じっています」
世論工作の合間に監視していた船舶トラッキングシステム。そこで、一隻のパナマ船籍の大型タンカーが、正規の航路を外れて『出雲』のいる孤立海域へ向かっているのを察知した。
「誰かが裏で仮想通貨をばら撒き、船ごと買収したようですね。……美月補佐官の青臭い熱意に当てられた、愚かな資本家がいるようだ」
狗飼は冷たく笑うと、別の暗号回線を開いた。
「房総半島、第4沿岸対艦ミサイル陣地へ。……ええ、『出雲』へ向かう国籍不明のタンカーを確認。我が国の安全保障を脅かすテロ支援船と断定し、即刻、地対艦ミサイルにて撃沈してください」
内調の息がかかった特務部隊が占拠する極秘施設へ、冷酷な「算盤」が弾き出された。
「――というわけだ。狗飼のクソ野郎が、俺の手配したタンカーをミサイルで海の藻屑にする気らしい」
力武の苛立った声が、暗号化された通話アプリ越しに響く。
深夜の房総半島。雨が打ちつける断崖絶壁の岩肌に、真っ黒な戦闘服に身を包んだ男が一人、ヤモリのように張り付いていた。
陸上自衛隊・第1師団所属、1等陸尉。坂上信長、25歳。
「……随分と手回しが早いな、力武。俺の到着と同時にミサイル発射準備たぁ、内調のタヌキどもも仕事熱心で感心するぜ」
信長は標準語で軽口を叩きながら、岩棚に身を引き上げた。
眼下には、断崖に作られた対艦ミサイル陣地。すでにミサイルのキャニスター(発射筒)が、冷たい雨の中で太平洋の空へ向けてゆっくりと角度を上げ始めている。
『悪いが、俺はキーボードしか叩けねえ。海で死にかけてるお姫様と、お前の親父さんを救えるのは、陸にいるお前だけだ。……10分以内に発射を止めろ』
「了解した。……終わったら、最高級の赤身肉を奢れよ。血が滴るくらいレアなやつをな」
通信を切り、信長は暗視ゴーグルを下ろした。
彼の脳裏に、防衛大を卒業する際に父・真一から叩きつけられた言葉が蘇る。
『オドレはまだ地獄に浸かっとらん。半人前や。兵士が地獄浸かって進まんと、国民は守れん!』
海自の将官である偉大な父。
その圧倒的な背中から逃げるように、あえて「陸」を選んだ。顔を合わせればボコボコにされるのが嫌だった。だが、父の言葉は呪いのように、ずっと信長の魂の底にへばりついていた。
「……親父。俺は今から、陸の底で地獄を這うぜ」
信長はアサルトライフルを背中に回し、腰の鞘から反りのない漆黒のタクティカル・マチェット(山刀)を引き抜いた。
雨音に紛れ、レンジャー訓練で鍛え抜かれた肉体が、音もなく陣地のフェンスを飛び越える。
見張りの特務隊員二人が、背後の気配に気づいた時には遅かった。
「なっ……!」
信長は滑るように間合いを詰め、北辰一刀流の無駄のない太刀筋で、一人の首の動脈を峰打ちで刈り取り、気絶させる。同時に、もう一人のライフルを蹴り上げ、鳩尾に重い肘打ちを叩き込んだ。
一切の躊躇も、情けもない。ひとたび実戦となれば、冷酷なまでに敵を排除する。それが彼が本から学んだ「戦場の絶対法則」だ。
「侵入者だ! 撃てッ!!」
異変に気づいた部隊が、一斉にアサルトライフルの銃口を信長に向ける。
銃弾の雨がコンクリートを砕く。
信長はコンテナの陰に転がり込みながら、背中のライフルを構え、反射的なフルオート射撃で三人を無力化する。
甲子園の強豪校で鍛えられた圧倒的な空間把握能力と動体視力。敵の配置、射線、弾の飛び交う軌道が、彼にはスローモーションのように見えていた。
「発射まで残り3分!! 侵入者を殺せ! ミサイルを死守しろ!」
指揮官の怒号が響く。
信長は弾切れのライフルを捨て、再びマチェットを握り直した。
残る敵は、ミサイル管制室の前に陣取る完全武装の五人。遮蔽物はない。
「……上等じゃあ。まとめて地獄へ案内しちゃる」
極限の興奮状態。信長の口から、親父譲りのドギツい広島弁が漏れ出す。
彼は爆発的な脚力で、雨の降る広場へ飛び出した。
「撃て!!」
十字砲火が信長を襲う。
肩を、脇腹を、太ももを、熱い鉄の塊が貫いた。
「ガァァッ……!!」
激痛が脳を焼く。血しぶきが雨に混ざってアスファルトを濡らす。
だが、信長の足は止まらなかった。
痛みなど、父の木刀が骨を砕くようなあの稽古に比べれば、ただのカスリ傷だ。圧倒的な大自然の暴力や、超えられない巨大な壁(父)に比べれば、こんな鉛の弾など何の意味も持たない。
「おおおおおおッ!!」
被弾し、ボロボロになりながらも、信長は狂獣のような咆哮を上げて管制室の扉に突っ込んだ。
驚愕で動きの止まった敵の懐へ潜り込み、北辰一刀流の神速の連撃が炸裂する。骨を砕き、銃を弾き飛ばし、最後の一人を背負い投げでコンクリートに叩きつけた。
血まみれになった信長は、荒い息を吐きながら管制室のコンソールに倒れ込んだ。
『発射まで、10、9、8……』
無機質なカウントダウンが響く。
「……力武、回線を、繋げ……っ!」
信長は震える手で端末を操作し、力武に強制ハッキングのポートを開かせた。
『……信長! お前、息が……』
「四の五の言わんと、止めえ!!」
カウント『3』の瞬間。
画面がフリーズし、すべてのシステムがブラックアウトした。
ミサイルのキャニスターが、シューという排気音と共に、ゆっくりと元の位置へ沈んでいく。
「……ハァ……ハァ……。ざまぁ、みろ……タヌキども……」
信長はコンソールに背を預けてへたり込み、血の混じった唾を吐き捨てた。
『……よくやった、信長。最高に高い肉を用意して待ってる』
力武の、少し震えた声が聞こえる。
「……力武」
信長は、薄れゆく意識の中で、雨の降る真っ暗な夜空を見上げた。
「……親父や、美月たちに……陸は元気だと、伝えとけ……」
そのまま、信長は静かに目を閉じた。
同じ頃。太平洋上。
『出雲』の飛行甲板に、巨大な黒い影が横付けされた。
力武が手配したパナマ船籍のタンカーだった。
「燃料パイプ接続! 送油開始!!」
甲板作業員たちの歓声が、暗闇の海に響き渡る。
「……来たな」
CICでその報告を受けた坂上の目が、夜叉のように鋭く光った。
枯渇していた艦のエネルギーが、息を吹き返していく。それは、美月の覚悟と、力武の算盤と、そして陸にいる息子・信長の血によって繋がれた、奇跡の命綱だった。
「蘭、システムの復旧は」
坂上が問う。
「……終わってるよ。さっきは取り乱してごめんね、提督」
蘭の表情は、完全に冷え切った天才のそれに立ち戻っていた。
「ロシアの泥はすべて隔離した。お返しに、私の考えた『最高の不合理』を、連中のネットワークのど真ん中に叩き込んであげる」
「美月」
坂上が、隣に立つ美月に声をかけた。
美月の目は、先ほどまでの絶望を完全に抜け出し、冷たく、そして力強い光を放っていた。
「出雲の動力、100%まで回復。各艦、火器管制システム、オールグリーン」
美月は、はっきりと通る声で宣言した。
「……提督。私たちの『反撃』を」
坂上はニヤリと、凶悪な笑みを浮かべた。
国に見捨てられた狂犬たちが、その真の牙を剥く時が来た。




