EP 8
ガリッ。資本主義の悪魔が飴を噛み砕く
東京・港区。
煌びやかな夜景を見下ろすタワーマンションの一室は、主の几帳面さと無頓着さが混在する奇妙な空間だった。
壁一面に並べられた複数のモニターには、世界の株価指数、暗号資産のチャート、そして太平洋上の船舶のリアルタイムトラッキングデータが、滝のような速度で流れている。
デスクの前に深く座り込んだ男は、ジッポライターで『赤マル(マールボロ・レッド)』に火をつけ、深く吸い込んだ。傍らには、すでに冷めきった安物のブラックコーヒーのマグカップが置かれている。
無所属の経済コンサルタント、力武義正、25歳。
かつて五大商社の鉄鋼部門で、億単位の利益をゲーム感覚で動かしていた元エース。冷酷なまでの「算盤(計算)」で勝ち上がりながら、血の通わない資本主義のシステムそのものに吐き気を催してドロップアウトした、若きフィクサーだ。
彼の口の中では、コンビニで買った安物の苺飴が、コロコロと音を立てて転がっていた。
『――私は今、あなた方に……死んでくれと、お願いしています』
スピーカーから流れているのは、ロシアの強力なジャミングを突破して漏れ出た、『出雲』の非暗号化通信の傍受音声だった。
「……バカが」
力武は、煙と共に短く吐き捨てた。
商社時代、切り捨てる側の人間を腐るほど見てきた。利益のために下請けを切り捨て、トカゲの尻尾切りをする。権力者たちは皆、それを「合理的な判断」「システム上の必要経費」だと嘯き、自らの手は決して汚さなかった。
だが、スピーカーから聞こえる深野美月の声は違った。
彼女は、自らの非と甘さを認め、他人に泥を被せるのではなく、自分自身の魂を泥に沈めることで決断を下した。
『全員を救うという、私の甘い理想が、この艦をここまで追い詰めた。だから、その罪は私が背負います』
力武は目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、かつて美月や、蘭、信長たちと同世代で飲んだ夜の記憶。
「皆が月を見上げて、笑って酒を飲める世界にしたい」と、本気で、青臭い理想を語っていた彼女の顔。
(あのお姫様が、自分の手で命を天引きする算盤を弾いたか……)
どれほどの絶望と、どれほどの痛みが彼女の心を切り裂いたか、力武には痛いほど理解できた。
損得勘定など一切ない。ただ、残された者たちを絶望の海から生かして帰すためだけに、彼女は自ら進んで「修羅」になる道を選んだのだ。
その、不器用すぎるほどの「無償の愛」。
——ガリッ。
静かな部屋に、硬いものが噛み砕かれる音が響いた。
力武が、口の中で転がしていた飴玉を、奥歯で粉々に砕いた音だった。
「……愛には愛で報いるのが、まともな商取引ってやつだろうが」
力武の目が、ディスプレイの青白い光を反射してギラリと光った。
斜に構えていたシニカルな男の顔は消え失せ、世界の底まで算盤を弾き倒す「資本主義の悪魔」が目を覚ました瞬間だった。
彼は吸いかけの赤マルを灰皿に押し付け、猛烈な速度でキーボードを叩き始めた。
「さあ、見せてやるよ。霞が関のジジイどものセコい経理じゃ追いつけない、本当の『カネと物の力』ってやつを」
数千のダミー会社、タックスヘイブンに隠された裏口座、そして非合法のブラックマーケット。力武の脳内で、世界中の血流(経済)が瞬時に組み替えられていく。
狙いは一つ。現在『出雲』が孤立している海域の至近距離を航行している、第三国船籍の巨大タンカーだ。
「積荷は航空燃料と重油。船主は中国のダミー企業か。……上等だ、相場の三倍の仮想通貨で『船長ごと』買い叩いてやる。断るなら、この船主の裏帳簿をSEC(米国証券取引委員会)にバラ撒く」
脅迫と買収。権力者の弱みを握り、優位に立つダークな交渉術。彼が最も得意とする土俵だった。
わずか15分。力武は、タンカーの針路を『出雲』へと強制的に書き換えた。
太平洋上、動力を失い暗闇に沈む『出雲』のCIC。
蘭は依然として床に座り込み、抜け殻のようにモニターを見つめていた。坂上と美月も、重すぎる犠牲の余韻の中で、沈黙の底にいた。
その時。
完全に死んでいたはずのサブコンソールが、突如として強制起動した。
ロシアの妨害電波の網の目を、あり得ない角度からすり抜けて接続された、強固な暗号化通信。
『――おい、バグ愛好家。いつまで床に座ってんだ。東大の理学部が泣くぞ』
スピーカーから響いた飄々とした男の声に、蘭がビクッと肩を震わせた。
「……りき、たけ……くん?」
『よぉ。お姫様(美月)も、狂犬のおっさん(提督)も、息してるか』
「力武さん……どうして、通信が」
美月が、信じられないものを見るような声でモニターに駆け寄る。
『お前らの通信、セキュリティがガバガバだったからな。世界中にあのお姫様の泣き言がダダ漏れだったぜ』
モニターの向こうから、ライターで煙草に火をつけるカチッという音が聞こえた。
『……随分と、良い顔になったな、美月。あの飲み会で月がどうとか語ってた綺麗な顔より、泥に塗れた今の面の方が、何倍も価値がある』
「……私は、許されないことをしました」
美月は俯き、血の滲むような声で答えた。
『ああ。だから、その高いツケは俺が払ってやる』
コンソールの画面が切り替わり、一つの座標データと、接近してくる巨大な船の識別信号が映し出された。
『現在地から南南東へ15海里。パナマ船籍のタンカーをそっちに向かわせた。腹一杯になるだけの燃料と物資が積んである。……俺からの、建国祝いの先行投資だ』
CICにいる全員の顔に、驚愕の色が浮かんだ。
国家に見捨てられ、絶たれたはずの補給線(命綱)が、たった一人の25歳の若者によって強引に繋ぎ直されたのだ。
「……力武さん、私たちには、あなたに払えるようなお金は」
『莫迦言え。お前のその「罪を被る覚悟(無償の愛)」が、俺にとっての最高の頭金だ』
力武は笑った。それは、底知れぬ悪意を持つ大国や腐敗した政府に対し、真っ向から喧嘩を売る不敵な笑みだった。
『戦え、美月。お前が地獄を歩くってんなら、俺がその道に世界中の金と物資を敷き詰めてやる。……今日から俺が、お前らの「裏の財務大臣」だ』
通信が切れる。
蘭がゆっくりと立ち上がり、乱れた髪を乱暴に掻き上げた。彼女の目に、さきほどの恐怖はもうなかった。代わりにあるのは、敗北を乗り越えた天才の、狂気じみた執念。
「……バグ(人間)って、本当にめちゃくちゃ。計算が全然合わない。……でも、だから最高に面白い」
蘭は新しい角砂糖を口に放り込み、キーボードに指を置いた。
「提督、美月。燃料が届くまでの30分、私がロシアのおじさんたちのシステムを『物理的に』燃やして時間を稼ぐ。……反撃の準備をして」
美月は深く頷き、坂上を振り返った。
補給という血液が再び巡り始めた今、反撃の狼煙を上げる時が来た。
彼女の目は、暗闇を照らす冷徹で強靭な「月」の光を、確かな熱量を持って放っていた。




