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EP 7

月が隠れた夜。美月の「罪」

冷たいプラスチックの感触が、美月の手のひらに食い込んでいた。

全艦に繋がる通信マイク。それは今、数十人の人間の命を天秤にかけ、一方を冷酷に切り捨てるための「死刑執行のスイッチ」だった。

煙が充満し、非常用バッテリーの薄暗い赤色灯だけが照らすCIC(戦闘指揮所)。

誰もが息を呑み、霞が関から来た若き官僚の後ろ姿を見つめていた。

「……貸せ、深野」

背後から、坂上が低くしゃがれた声で言った。

彼の大きな手が、美月の持つマイクを奪おうと伸びてくる。

「ワシは司令官じゃ。部下に死地へ行けと命じるのは、ワシのカルマじゃ。おどれのような堅気の娘が、背負う泥じゃあない」

その手は、かすかに震えていた。

かつて、国という巨大なシステムの狂気によって特攻隊として散った祖父。その無念を晴らし、部下を家族のように守るために自衛隊に入った彼にとって、この命令は己の魂を切り裂く行為に等しい。

「ダメです、提督」

美月は、坂上の手をきっぱりと弾き返した。

「あなたは、この艦の『心棒』です。あなたが手を汚し、誇りを失えば、残された者たちは戦う理由を失ってしまう。……それに」

美月は振り返り、真っ直ぐに坂上の目を見た。

その瞳には、もはや甘い理想を語る少女の無邪気さはなかった。

「霞が関で、私は『一部を切り捨てて全体を生かす算盤』を全否定しました。全員を救うと、傲慢にも言い切った。……その甘さが、皆をこの窮地に追いやったのです。だから、これは私の責任。私の、罪です」

美月はマイクのスイッチを入れた。

『――出雲艦隊、随伴護衛艦「しらぬい」「むらさめ」の両艦長。及び、乗組員の皆様』

静まり返った艦内に、美月の澄んだ、しかし酷く冷たい声が響き渡った。

『内閣府特命補佐官、深野美月です。……現在、本艦は動力を喪失し、敵艦隊の完全な包囲下にあります。本国からの支援は絶たれました』

マイクを持つ手が、小刻みに震える。

美月は反対の手で自分の手首を強く握り締め、声を振り絞った。

『両艦に命じます。これより全速力で敵艦隊の中央へ突入し、レーダーの注意を引きつける「囮」となってください。……その隙に、出雲は予備動力で海域を離脱します』

言ってしまった。

命を、数字として処理した。

自分が最も憎んだ、若林たちと同じ「血の通わない国家の論理」を、自らの口で振りかざしたのだ。

『……脱出ボートの用意はありますが、生還の可能性は、極めて低いです。私は今、あなた方に……死んでくれと、お願いしています』

CICに、痛いほどの沈黙が落ちた。

やがて、ノイズ混じりの通信機から、しゃがれた男の笑い声が聞こえてきた。

『……いやァ、正直に言いますね、補佐官殿。政治家の言う「名誉ある作戦」だの「国への奉仕」だのという綺麗事で飾られるより、よっぽど腹が据わりましたよ』

護衛艦のベテラン艦長の声だった。

『私たちは国に見捨てられた。だが、あなた方に見捨てられたわけじゃない。……提督オヤジに伝えてください。アンタの背中の仁王像は伊達じゃなかったって、地獄の鬼どもに自慢してやりますよ、と』

『しらぬい、抜錨します。……提督、補佐官殿。残った若い連中を、頼みます』

通信が切れた。

モニターの端で、二つの小さな緑色の光点が、ゆっくりと動き出した。

それは、圧倒的な数の赤い光点(敵艦隊)が群がる中心地帯へと、一直線に向かっていく。

「メインエンジン、回復しました! スクリュー回ります!」

オペレーターが叫ぶ。敵の電子戦の負荷が、突出した二隻の護衛艦に集中したことで、蘭が必死に構築し直した『出雲』のシステムに僅かな隙間が生まれたのだ。

「……面舵いっぱい。海域を離脱する」

坂上が、血を吐くような声で命じた。

巨大な空母が、鈍い音を立てて旋回を始める。

美月は、モニターから目を離さなかった。

緑の光点が、赤い光点の群れに飲み込まれる。

ドオォォォォン……ッ!!!

遠くの海上で、暗い夜空を真昼のように照らす強烈な閃光が二度、弾けた。

腹の底を揺らすような爆発音が、遅れて『出雲』の分厚い装甲を震わせる。

モニターから、二つの緑の光点が、完全に消滅した。

「…………」

蘭が、画面を見つめたままポロポロと涙をこぼしていた。

「バグだ……。こんなの、数式でおかしいよ……。なんで、自分から死にに行くの……っ」

誰も、言葉を発することができなかった。

助かったという安堵よりも、重すぎる犠牲の対価が、生き残った者たちの魂を押し潰していた。

美月は、泣かなかった。

ただ、自分の両手を見つめていた。

そこには何の汚れもない。だが彼女には、その手がべっとりと赤黒い血で染まっているように見えた。

「……よく見ろ、深野」

背後から、坂上が美月の肩を力強く掴んだ。

提督の目にも、涙はなかった。ただ、地獄の底を覗き込むような凄絶な怒りと覚悟が燃えていた。

「おどれが背負った泥じゃ。おどれが殺した命じゃ。……一生、忘れるな。そして、絶対に目を逸らすな。あの光が、おどれの新しい『月』じゃ」

「……はい」

美月は顔を上げ、もう何も映っていない暗い海域のモニターを見つめた。

皆を笑顔にしたい。皆を照らす優しい月になりたい。

そんな甘い理想は、先ほどの爆発と共に太平洋の海の底へ沈んだ。

国家という巨大な暴力に抗い、理不尽な世界から仲間を守るためには、誰かが手を汚し、残酷な算盤を弾き、血の通った修羅にならなければならないのだ。

「私はもう、綺麗な月にはなれません」

美月は振り返り、CICのクルーたち、蘭、そして坂上を見据えた。

その表情には、すべてを失った者の底知れぬ静けさと、鋼のような王の威厳が宿っていた。

「日本政府は、私たちを切り捨てました。ならば、私たちが守るべき『国』は、もはやあの島国には存在しない」

美月の瞳が、暗闇の中でギラリと光る。

「……反撃を始めます。私たちの命を数字として扱った者たちすべてに、地獄の底の泥を啜らせてやりましょう」

その声は、絶望の海に浮かぶ『出雲』の乗組員たちの胸に、深く、黒い炎を燃え上がらせた。

だが、彼らはまだ手足を捥がれたままだ。燃料も、弾薬も、味方もいない。

――しかし。

この暗号化すら解かれた「むき出しの通信」を、遠く離れた東京のコンクリートジャングルで、一人静かに傍受している男がいた。

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