EP 4
暗黒の森と、欺瞞の空
「あー、マジでだるい。なんで俺がこんな貧乏くじ引かなきゃなんないの」
蒼穹を切り裂く爆音の中、平上雪之丞はヘルメットの通信マイク越しに愚痴をこぼしていた。
彼が操る最新鋭ステルス戦闘機F-35Bは、鉛色の雲を抜け、高度一万メートルの中空を滑るように飛翔している。
『泣き言を言うな、雪之丞。お前の仕事は敵の電子戦機を見つけ出し、ロックオンして「撃てるぞ」と脅しをかけることだ。絶対に先制攻撃はするなよ』
CIC(戦闘指揮所)からの坂上の声に、雪之丞は「へいへい」と気だるげに返す。
しかし、彼の目の前にあるレーダーのディスプレイは、素人目に見ても異常だった。赤い光点(敵機影)が、まるでバグったゲーム画面のように無数に増殖し、点滅している。
ロシア軍十八番の電子戦戦術、『マスキロフカ(軍事的欺瞞)』。
実在しない「幽霊」の機影を大量に発生させ、敵の防空システムをパンクさせる物理と情報の複合攻撃だ。
「蘭ちゃん、これ何機が本物? 画面がうるさくて目障りなんだけど」
『今、フィルタリングの数式書き換えてる。……うーん、ロシアのおじさんたち、なかなかエグいアルゴリズム組んでるね。本物は多分、その中の二機だけ』
「多分ってなんだよ、多分って」
雪之丞は大きくため息をついた。
操縦桿を握る手に、少しだけ力が入る。普段は及第点ギリギリでサボることしか考えていない男だが、ひとたび空へ上がり、機体と一体化した時の彼は別人に変わる。
人生の重苦しい責任も、借金の取り立ても、空の上には存在しない。ただ「飛ぶ」という純粋な悦びと、圧倒的な自由(軽さ)だけがそこにある。
「ま、いいや。機械の目がアテにならないなら、俺の目で探すまでだ」
雪之丞はVSTOL(短距離離陸・垂直着陸)の推力偏向ノズルを微細に操作し、常識外れの挙動で空中で急減速した。猛烈なG(重力加速度)が肉体を軋ませるが、彼の表情には微かな笑みが浮かんでいた。
偽物の機影は、プログラムされた直線の動きしかしない。だが、生身の人間が乗っている本物は「彼という異物の予測不能な動き」に対し、必ず無意識の反応(回避行動)を示すはずだ。
「さあ、どいつが本物の『バグ』かな?」
空の天才は、狂気じみたダンスを踊るように、無数のゴーストが飛び交う空域へと単機で突っ込んでいった。
時を同じくして。
東京・六本木の高級ホテルの一室。
分厚い防弾ガラス越しに東京タワーを見下ろしながら、二人の男が紫煙をくゆらせていた。
一人は、甘い香りの高級煙草「中華(Chunghwa)」を咥え、温和な笑みを浮かべる中国大使、張慶雲。
もう一人は、喉を焼くようなロシアの安煙草「ベロモルカナル」を無表情で吸う、ロシア大使のヴィクトル・オルロフ。
「ヴィクトル。君の国の『マスキロフカ』は相変わらず美しいな。出雲艦隊は完全に目隠しをされ、身動きが取れなくなっている」
「……西側の兵器はシステムに依存しすぎている。目を潰せば、ただの鉄の的だ。それよりも張、日本政府は本当に動かないのか?」
オルロフの冷たい問いに、張は楽しそうに微笑んだ。
「ええ。若林幹事長は、極めて『合理的』な男ですからね。我が国との数百億の経済協力と引き換えに、あの目障りな出雲艦隊を処理できるなら、彼は迷わず見捨てる道を選びます。世界は暗黒の森です。息を潜め、弱った獲物は同胞であろうと切り捨てる……それが彼らの『国益』というものです」
「ならば、このまま真綿で首を絞めるように、太平洋の藻屑にしてやろう」
二人の大国の怪物は、グラスに注がれたウォッカと茅台酒を合わせ、静かに乾杯した。
「……おかしいです」
『出雲』のCIC。
目まぐるしく変わる戦況データを睨んでいた美月が、ふと声を上げた。
「どうした、美月」
坂上が振り返る。
「蘭さん。ジャミングの影響を受けていない、本国からの『補給艦』のGPSシグナルは追えますか?」
「え? 補給艦?」
蘭はキャンディの棒を咥えたまま、別のキーボードを叩く。「待って……うん、微弱だけど海保の暗号化回線経由で追える。……あれ?」
蘭の手が止まった。
モニターに映し出された補給艦の光点は、出雲へ向かっていたルートから大きくUターンし、日本本土へと引き返していた。
「補給艦が、引き返している……?」
オペレーターの一人が、絶望的な声を漏らす。
「燃料と弾薬の補給が絶たれれば、私たちはこの海域で完全に干上がります。それに、海上保安庁や近くの護衛艦隊からの支援通信も一切ありません」
美月の声は震えを帯びていたが、その目は冷たい現実を正確に捉えていた。
「電波が妨害されているからじゃない。最初から、誰も助けに来ないんです。日本政府は、国際社会に対して『出雲艦隊は暴走した反乱分子であり、我が国は関与しない』というシナリオを書き上げた。……私たちは、国に捨てられたんです(トカゲの尻尾切り)」
CICに、死のような静寂が落ちた。
最前線で命を懸けている兵士たちにとって、最も恐ろしいのは敵のミサイルではない。自らが守るべき「国」に背中を撃たれることだ。
『提督! 燃料の残量が規定値を切りました! このまま上空でドッグファイトを続ければ、帰投できなくなります!』
上空の雪之丞から、焦燥の混じった通信が入る。
「……提督」
美月は坂上を見た。
国から棄民として扱われた今、この艦の命運を握っているのは、現場の王であるこの男だけだ。
坂上はギリッと奥歯を噛み締め、モニターの向こうの「見えない敵(霞が関)」を睨みつけた。
暴力と仁義で生きてきた男にとって、部下を見捨てるような国の論理は反吐が出るほど嫌悪すべきものだった。
「蘭、通信回線の回復はどうなっとる」
「あと少し……! でも、ロシアのAIが予想以上にしぶとい。こちらの防壁を逆に侵食し始めてる!」
無敗を誇ってきた天才AIエンジニアの蘭の額に、初めて冷や汗が浮かんでいた。
盤面は最悪。
燃料は尽きかけ、目は塞がれ、味方は一人もいない。
美月は、胸の奥で何かが焼け焦げるのを感じた。
「誰もが笑い合える世界」を創るための、彼女の美しい理想。
それが今、血の通わない国家の「算盤」と、大国の「悪意」の前に、無惨に踏みにじられようとしていた。




