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EP 5

沈黙の螺旋と、切り離された尻尾

東京・霞が関。

内閣情報調査室(内調)の地下にある、窓のない特命分析室。

壁一面を覆う巨大なマルチモニターには、国内外のニュース番組、SNSのタイムライン、そして動画共有サイトのトレンドが滝のように流れている。

その中央で、温和な笑みを浮かべた中年の男が、キーボードを滑らかに叩いていた。

内調・特命分析官、狗飼潤いぬかい じゅん

彼の目の前で、日本の世論という巨大な濁流が、見えない手によって鮮やかに向きを変えようとしていた。

『――速報です。防衛省は先ほど、太平洋上で訓練中であった出雲艦隊が、司令部の帰投命令を無視し、不測の事態を引き起こす可能性のある独断専行を行っていると発表しました』

ニュースキャスターの緊迫した声が響く。

同時に、SNS上には狗飼が裏で手配した無数のインフルエンサーとボットによる投稿が一斉に投下された。

【悲報】出雲艦隊、ガチで反乱か?

【ヤバすぎ】艦長の坂上って元暴走族らしいぞ。そんな奴に空母任せるとか国終わってんな。

【陰謀論】中国を刺激して戦争起こそうとしてる右翼のクーデター説。

狗飼は、コーヒーを啜りながらその光景を眺めていた。

真実など、どこにもない。人々が見たいと望む「わかりやすい悪役」を用意してやるだけでいい。一度「出雲は危険な反乱分子だ」という空気が形成されれば、それに反論しようとする少数の意見は、同調圧力という暴力によって徹底的に押し潰される。

(誰も、少数派にはなりたくない。……これが『沈黙の螺旋』です。彼らを擁護する声は、数時間後には日本から完全に消え去る)

机の上の暗号化端末が鳴った。

表示された発信者は、与党幹事長の若林幸隆。

「私です、先生」

『……尻尾は、綺麗に切れたか』

若林の声には、微塵の迷いもなかった。煙草の煙を吐き出す音が聞こえる。

「ええ。現在、出雲は『命令無視の暴走部隊』として国民に認知されつつあります。これで中国側の顔も立ち、我が国は国際社会からの非難を免れるでしょう。ご家族や関係者の口封じも、すでに手配済みです」

『ご苦労。……深野には悪いが、国を回すための必要経費じゃ』

通信が切れる。

狗飼は感情のない濁った目で、モニターに映る『出雲』の艦影を見つめた。

「さようなら、深野補佐官。あなたの美しい理想は、この国の世論システムには適合しなかった」

太平洋上、絶望の暗闇の中。

『出雲』のCIC(戦闘指揮所)は、死人のような重い沈黙に包まれていた。

「……以上が、現在日本国内で報道されている内容のすべてだよ」

天才AIエンジニアの蘭が、キャンディの棒を弄りながら抑揚のない声で報告した。

彼女は、ロシアの強烈なジャミングの隙間を縫って、民間の中継衛星をハッキングし、日本国内のニュース音声を拾い上げることに成功していた。

しかし、その努力がもたらした現実は、あまりにも残酷だった。

『政府は、出雲艦隊を事実上の反乱部隊と断定。一切の補給と支援を打ち切ることを決定しました――』

ノイズ混じりのキャスターの声が、CIC内に空しく響き渡る。

「反乱部隊、だと……?」

レーダーを監視していた若いオペレーターが、ギリッと歯ぎしりをしてコンソールを叩いた。

「ふざけるな!! 俺たちは命令通りこの海域に来ただけだぞ! 国のために命を張って、どうして俺たちがテロリスト扱いされなきゃならないんだ!」

「親父や……実家の母ちゃんは、今頃どんな思いでニュースを……」

別の隊員が、顔を覆って崩れ落ちた。

誇り高き兵士の心をへし折るのは、敵の強大な火力ではない。

自らが信じ、命を懸けて守ろうとした国に、存在そのものを否定されることだ。

艦内の空気は、連鎖する絶望によって急速に冷え込んでいく。

『……提督。悪いが、タイムアップだ』

スピーカーから、上空の雪之丞の声が響いた。普段のヘラヘラした響きは消え、プロのパイロットとしての張り詰めた声色だった。

『燃料がデッドラインを割った。これ以上飛べば、帰りの分のガスがなくなる。おまけに、俺の機体をロックオンしてる敵の火器管制レーダーが、さっきからビンビン鳴りっぱなしだ』

「……帰投せえ、雪之丞。よく持たせてくれた」

坂上が、低く唸るような声で命じた。

『了解。……海に落ちたら、借金チャラにしてくれよな』

通信が切れ、CICのメインスクリーンから味方の機影が消えた。

それは、出雲艦隊が空の「目」と「盾」を完全に失ったことを意味する。

ロシアの電子戦による目隠し。

四方を囲む中国艦隊の圧倒的な火力。

そして、補給の途絶による「死のカウントダウン」。

彼らは今、逃げ場のない鉄の檻の中で、ただ餓死するか、撃沈されるのを待つだけの存在に成り果てていた。

(……これが、現実)

コンソールの端で、美月は震える両手を強く握りしめていた。

彼女の脳裏に、霞が関で若林が放った言葉が蘇る。

『道徳や理想だけで飯が食えるか。勝つために泥をすする覚悟もないくせに』

美月は、周囲を見渡した。

顔を覆って泣く若き隊員。悔しさに唇を噛み破る士官。そして、全ての責任を背負い、夜叉のような顔で海を睨みつける坂上提督。

彼らは、太陽(国家)に灼き尽くされた。

自分が甘い理想を語り、正論を振りかざしたせいで、若林という太陽の逆鱗に触れ、この艦ごと切り捨てられたのだ。

(私が、彼らを殺す……?)

「……提督」

美月は、乾いた喉から声を絞り出した。

その声は、かつて内閣府で「皆の笑顔」を語っていた時のような、清らかな響きを失っていた。

「私たちに残された、生存のための『手札』はありますか」

坂上は振り返り、美月の顔を見た。

霞が関から来たばかりの、綺麗で青臭いお嬢ちゃんの顔は、そこにはなかった。

絶望の淵に立たされながら、それでもなお「次の一手」を思考しようとする、修羅の目覚めがそこにあった。

「……一つだけある」

坂上が、血の滲むような声で答える。

「だが、それは『軍隊』としては絶対にやってはならん、外道の戦術じゃ」

美月の目に、暗い決意の火が灯った。

月が雲に隠れ、彼女が真の「泥」を被る夜が、すぐそこまで迫っていた。

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