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EP 2

片道切符と、海に浮かぶ「棺桶」

太平洋上。どこまでも続く鉛色の海を裂き、巨大な鉄の島が進んでいた。

事実上の空母でありながら、政治的配慮から「多用途運用護衛艦」という名目で海に放たれた異形の艦隊旗艦、『出雲』。

輸送ヘリの強烈なダウンウォッシュを浴びながら、深野美月は飛行甲板に降り立った。

霞が関のオフィスには到底似合わない、潮風とジェット燃料、そして鉄の焼ける匂いが鼻を突く。

「おっと、危ねえ」

強風でよろけた美月の腕を、横から不躾に掴んだ男がいた。

パイロットスーツをだらしなく着崩した男だった。無精髭を生やし、目は半分死んでいる。

「あんた、新しいお目付け役? それとも食堂のネーちゃん? どっちでもいいけど、今月給料日までカツカツなんだわ。初対面で悪いけど、1万……いや、5千円貸してくれない? 絶対返すから」

これが、日本の防空を担う最新鋭ステルス戦闘機F-35Bのパイロットの口から出る言葉か。

平上雪之丞ひらうえ ゆきのじょう。書類上の経歴は「天才」だが、素行不良と借金癖でたらい回しにされ、この艦に流れ着いた男だ。

「……申し訳ありませんが、私設の貸金業は営んでおりません。それと、私は内閣府から出向して参りました、深野と申します」

「うわ、マジの官僚様かよ。堅っ苦しいねえ。ま、せいぜい怪我しないようにね。ここは掃き溜めだから」

雪之丞は面倒くさそうに頭を掻くと、欠伸をしながら甲板の奥へと消えていった。

美月は案内されるまま、艦の頭脳であるCIC(戦闘指揮所)を抜け、司令官室へと向かった。

艦内をすれ違う乗組員たちの目は、一様に濁っていた。極度の疲労と、本国から「見捨てられている」という無言の諦め。最新鋭の兵器を揃えながら、この艦隊の空気はどこか、死を待つ病棟に似ていた。

分厚い鋼鉄の扉が開く。

部屋の中は、むせ返るようなハイライトの煙と、濃く淹れられたブラックコーヒーの匂いが充満していた。

「……遅いぞ。霞が関のモグラは、歩くのも亀みたいに鈍いんか」

執務机の奥。背を向けて海を睨んでいた巨漢が、ゆっくりと振り返った。

出雲艦隊打撃軍 総司令官、坂上真一さかがみ しんいち

綺麗にアイロンがけされた制服を着ているが、その隙間から漏れ出る暴力的なオーラは、将官というよりも裏社会の首領のそれだった。

「内閣府 政策統括官付、深野美月です。本日から——」

「挨拶は要らん。書類も読まん」

坂上は美月の言葉を遮り、ポケットから取り出したコーヒーキャンディをガリッと噛み砕いた。

「永田町のタヌキ(若林)が、邪魔になったおどれを体よく追い出したんじゃろうが。ここはな、本国で問題を起こした狂犬と、使い捨ての兵隊を詰め込んだ棺桶じゃ。……お嬢ちゃんみたいな綺麗な月を眺めとる暇のある人間は、ここには一人もおらん」

ドギツい広島弁の圧が、物理的な重さを持って美月を叩きつける。

並の官僚なら、この威圧感だけで膝を折って逃げ出すだろう。

だが、美月は一歩も引かなかった。

ローファーの踵を鳴らし、逆に坂上のデスクへと歩み寄る。

「ええ、知っています。ここは国に見捨てられた、墓場のような場所だと」

美月は、まっすぐに坂上の鋭い眼光を見返した。

「ですが、墓場の土は豊かです。絶望の泥の中でも、人間は必ず生きて、何かを育てようとする。……私は、皆さんが国のために黙って死ぬための書類にハンコを押すつもりはありません」

「……ほう?」

坂上の目が、微かに細められた。

「私がここに来たのは、この掃き溜めを、皆が胸を張って『おはよう』と言い合える場所に変えるためです。たとえ国があなた方を見捨てようと、私は、あなた方が夜に笑って酒を飲めるためのシステムを、この泥の中で組み上げます」

部屋に、重い沈黙が落ちた。

坂上は美月の瞳の奥に、かつて自分が率いていた暴走族の特攻隊長のような、あるいは、国のために理不尽に散っていった祖父のような、絶対に折れない「狂気」を見た。

「……世界がぜんたい幸福にならんうちは、個人の幸福はあり得ない、か」

坂上は短く鼻で笑うと、ハイライトの火を灰皿でもみ消した。

「綺麗事じゃ。だが、その青臭い意地、いつまで保つか見せてもらおうか。……ようこそ、地獄の釜の底へ」

「はい。よろしくお願いいたします、提督」

美月が深く一礼したその時、部屋のスピーカーから、ひどく間の抜けた、しかし冷徹な若い女の声が響いた。

『あー、提督ぅ? おしゃべり中にごめんね。新しいおもちゃ(官僚)がいじめたくなるのは分かるけど、ちょっと面倒なバグが発生したよ』

「蘭か。どうした」

坂上が低い声で応じる。

『北西の海域。予定になかったロシアと中国の合同演習艦隊が、うちの進行ルートを完全に塞ぐ形で展開し始めた。……しかもこれ、うちの通信網ネットワークに、マスキロフカ(電子妨害)のジャミング掛けてきてる』

声の主、天才AIエンジニアの早乙女蘭が、角砂糖を齧る音がマイク越しに聞こえた。

『本国(霞が関)との通信、たった今、完全に切断されたよ。私たち、世界から隔離されちゃったみたい』

美月の背筋に冷たいものが走った。

追放された初日。

海に浮かぶ棺桶は、真の孤立無援の戦場へとその姿を変えようとしていた。

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