第一章 理想の崩壊、血を流す覚醒、そして「傷だらけの理想郷」の誕生
霞が関のかぐや姫、太陽に灼かれる
窓の外には、冷たい東京の夜景が広がっていた。
見上げれば、ビルの谷間に頼りなく浮かぶ半月。
内閣府・政策統括官付の執務室。
深野美月は、デスクの上に無造作に投げ出された分厚いファイルを見つめていた。表紙には『地方農業・コミュニティ再生特別法案』と印字されている。彼女がここ数ヶ月、睡眠時間を削り、全国の農村を飛び回って現場の声を集め、心血を注いで組み上げた政策の結晶だった。
「……破棄、ですか」
美月は、目の前の革張りのソファに深く腰掛ける男に問いかけた。
与党幹事長、若林幸隆。
政界の裏表を知り尽くした、永田町の最大のフィクサー。かつて、長野の山奥から出てきたばかりの美月の論文に目を留め、特例でこの霞が関の中枢へと引き上げた「恩師」でもある男だ。
若林は、咥えていたピースに火をつけ、重い紫煙をゆっくりと吐き出した。
「ああ、破棄じゃ。紙屑にも劣る」
「理由をお聞かせ願えますか」
美月の声は静かだったが、その奥には譲れない芯の強さが宿っていた。
「この法案は、上からの押し付けではありません。地方の人々が自らの足で立ち、自立した経済圏を作るためのものです。これを潰せば、あと数年で日本の地方は完全に死にます」
「だからお前は青いんじゃ、深野」
若林の目が、煙越しに鋭く光った。普段の老獪な標準語が消え、修羅場を潜り抜けてきた男のドギツい広島弁が顔を出す。
「おどれの言う『人々の笑顔』やら『温かいコミュニティ』やらで、国が守れると思うとるんか? 今朝、中国の張大使と茶ァどついてきたわ。あいつら、おどれの守ろうとしとる土地に、国債の肩代わりと引き換えに巨大なインフラ投資を仕掛けてきとる。……おどれの法案を通せば、あのタヌキどもの機嫌を損ねて、数百億の金が飛ぶ。国全体が沈むんじゃ」
「国が豊かになっても、そこに暮らす人が日々の労働に誇りを持てず、笑えないのなら……そんな国は、すでに死んでいるのと同じです!」
美月は一歩踏み出した。少しだけ、長野の訛りが混じる。
「朝起きて『おはよう』と笑い合って、皆がそれぞれの場所で泥臭く輝いて働いて。夜になれば月を見上げながら、美味い酒を飲んでバカ話ができる……。私は、政治の役割は、その当たり前の景色を守ることだと——」
「政治は詩じゃあない!!」
若林の怒声が、部屋の空気を震わせた。
灰皿にピースが押し付けられる。
「道徳や理想だけで飯が食えるか。国を富ませ、力で外敵をねじ伏せる算盤が弾けんで、何が政治じゃ。勝つために泥をすする覚悟もないくせに、安全な霞が関から月ばかり見上げおって。……張大使も笑うとったわ。『かぐや姫には、現実の泥は似合わない』とな」
美月は息を呑んだ。
最初から、この法案を通す気などなかったのだ。若林は、中国との巨額の取引を有利に進めるための「見せ球」として、そして「誠意として潰すための供物」として、美月の法案を利用したに過ぎない。
これが、国家。これが、永田町の現実。
あまりにも強烈な太陽(権力)の光に、美月の掲げた小さな月(理想)は、無惨にも灼き尽くされた。
「……私を、どうするおつもりですか」
「お前は少し、綺麗に賢くなりすぎた。頭を冷やせ」
若林は立ち上がり、冷酷に言い放った。
「明日付で防衛省へ出向じゃ。特命補佐官として『出雲』に乗れ」
その名を聞いて、美月は目を見開いた。
『出雲』。
表向きは海上自衛隊の最新鋭空母艦隊。しかしその実態は、上官に逆らったはぐれ者、問題を起こした無法者、そして政府にとって「都合の悪くなった人間」を隔離するための、海に浮かぶ流刑地。一度乗れば、二度と表舞台には戻れないと言われる掃き溜めだ。
「……承知いたしました」
美月は深く一礼し、自らの足で執務室を後にした。
振り返ることはなかった。
翌朝。東京港。
潮の匂いが鼻を突く岸壁に、美月は立っていた。
手荷物は少ない。キャリーケースの中には、数着の古着と、自作のいびつな「ぐい呑み」、そして数冊の擦り切れた本だけだ。
目の前には、灰色の巨大な鉄の塊——『出雲』が、冷たい海に浮かんでいる。
(……太陽の下では、私の声は誰にも届かなかった)
美月は、灰色の空を見上げた。
国に使い潰され、切り捨てられた人間たちが集まる箱舟。
地獄と呼ばれるその場所で、彼女の胸の奥底にある炎は、まだ消えてはいなかった。
「夜を創ろう」
誰に聞こえるでもなく、美月は小さく呟いた。
太陽が照らさないのなら、私が皆の足元を照らす月になる。暗闇の中で、もう一度、誰もが笑って酒を飲める世界を創り直すために。
元・内閣府のエリート官僚、深野美月。
彼女の泥に塗れた反逆の物語が、今、静かに抜錨した。




