EP 15
太陽を喰い破る月。恩師との決別
東京・永田町。
重厚なマホガニーのデスクに、ピースの重い煙が漂っていた。
与党幹事長、若林幸隆は、灰皿に煙草を押し付けながら、目の前に立つ内調の狗飼潤の報告を無言で聞いていた。
「……以上が、現在確認されている状況です。多国籍軍の包囲網は突破され、中国およびロシアのシステムは一時的に麻痺。張大使もオルロフ大使も、出雲の『引き抜き』に失敗した模様です」
狗飼の顔には、かつての余裕はなかった。
想定していた「トカゲの尻尾切り」は完全に破綻した。それどころか、切り離されたはずの尻尾が、世界中の怪物を血祭りに上げ、独立した巨大な牙となって極東の海に鎮座しているのだ。
「……総理をはじめ、党内の幹部たちはパニック状態です。このまま出雲が他国に寝返る、あるいは我が国に牙を剥けば、政権は一日で吹き飛びます。直ちに『出雲の帰還を歓迎し、特命作戦であったと偽装する』声明を出すべきかと」
「馬鹿め。今さらどの面下げて『帰ってこい』と言うんじゃ」
若林は低く笑った。
「あいつらはもう、ワシらの知っとる『飼い犬』じゃあない。泥の底で血の味を覚え、自らの力で鎖を千切った本物の狂犬じゃ。……甘い餌で戻ってくるようなタマか」
その時。
若林のデスクの上にある、極秘の直通回線が低い電子音を鳴らした。
発信元の表示はない。だが、誰からの着信か、若林には直感でわかっていた。
「……下がれ、狗飼。ワシが話す」
狗飼が一礼して部屋を出ると、若林はゆっくりと受話器を取った。
『……おはようございます。若林幹事長』
スピーカーから響いたのは、ノイズ一つないクリアな音声。
深野美月の声だった。
だがそれは、かつてこの執務室で理想を語り、若林の怒声に震えていた「かぐや姫」の響きではなかった。極寒の海のように冷たく、鋼のように硬い、覇者の声だ。
「……随分と、良い面構えになったようじゃのう、深野」
若林は、新しくピースに火をつけながら言った。
「綺麗な理想を捨て、己の手を血で汚し、法と資本の暴力で大国を出し抜く。……ワシの教えた『現実』の味は、どうじゃった?」
『最悪です。吐き気がします』
美月は即答した。
『でも、あなたが私をこの地獄に突き落としてくれたおかげで、ようやく理解できました。……権力を持たない正義(理想)は、ただの寝言であるということを』
「ククッ……違いねえ。で、どうするつもりじゃ? 張やオルロフの誘いは蹴ったと聞いたぞ。……ワシに謝罪と身の安全を要求し、日本へ帰ってくるか? おどれが泥を被れる政治家に育ったというなら、ワシの隣に席を用意してやってもええぞ」
若林の言葉は、単なる挑発ではない。
彼にとって、政治とは「利益と恐怖で人を動かす盤面」だ。美月がそのルールを理解したのなら、再び自分の手駒として、いや、最強の「右腕」として迎え入れる準備があった。
だが、通信の向こうで、美月はふっと冷たく笑った。
『……先生。あなたは私に、国を動かすには情ではなく、厳格なルールと利益(算盤)が必要だと教えましたね』
美月の言葉に、若林の目が細められる。
『だから、私も算盤を弾いてみました。……現在の出雲艦隊は、力武義正が構築した裏経済のネットワークにより、他国に依存しない無尽蔵の補給線を確保しています。法的には、桜田リベラが作り上げた「民間企業」の盾があり、いかなる国家も手を出せません。そして、早乙女蘭の知性と、坂上提督、平上雪之丞の圧倒的な暴力が、この海を支配している』
淡々と、しかし圧倒的な事実を積み上げていく美月。
『私たちにとって、すでに日本政府は「不要」です。帰還するメリット(利益)は一つもありません』
「……大きく出たのう。だが、国家という土台を持たん根無し草が、いつまで世界を相手に持ち堪えられるか」
『土台なら、これから創ります』
美月の声に、一切の迷いはなかった。
『あなたは、人間は利益と恐怖でしか動かないと言った。でも、それは違います。私たちは、利益も恐怖も度外視して、ただ互いを生かすためだけに、損得のない「無償の愛」で限界を超えた。……あなたの冷たい現実には、この計算式は理解できないでしょう』
若林は、葉巻を口に運ぶ手を止めた。
『私は、あなたの現実を喰い破って、私の理想を完成させます。……皆が笑って酒を飲める世界を創る。そのために、私は泥を被る修羅になった』
美月の言葉は、かつての恩師に対する「完全な決別」であり、同時に「宣戦布告」だった。
利用され、切り捨てられた少女が、自らを切り捨てた巨大な権力者を見下ろし、その存在価値そのものを否定したのだ。
「…………」
長い、重い沈黙が流れた。
やがて。
「……ククッ。……ハハハハハハッ!!」
若林は、腹の底から、執務室の窓ガラスが震えるほどの豪快な笑い声を上げた。
「見事じゃ。見事じゃぞ、深野!!」
若林の目に、怒りはなかった。あるのは、自分を超える可能性を秘めた「怪物」を産み落としてしまったことへの、純粋な歓喜と、政治家としての底知れぬ闘争心だった。
「おどれのような甘ったれた小娘が、まさかワシの首を本気で獲りに来るバケモノに化けるとはのう……! ええじゃろう。ならば、やってみい! ワシが築き上げたこの国の秩序を、その青臭い理想でひっくり返してみせえ!」
『……言われるまでもありません』
美月は、氷のように冷たく、しかし夜空の月のように鮮烈な声で、最後通牒を叩きつけた。
『さようなら、若林幹事長。……次に会う時は、貴方たちの時代が終わる時です』
ブツッ。
一方的に通信が切断された。
若林は、ツーツーと鳴る受話器をゆっくりと置いた。
燃え尽きかけたピースの灰が、デスクの上に落ちる。
「……狂犬を放ったつもりが、虎を育ててしもうたか」
若林は、窓の外の東京の空を見上げた。
彼が長年かけて築き上げてきた、冷酷で計算高い日本の政治システム。そこに、絶対に計算が合わない、強大で美しい「異物」が誕生したのだ。
一方、太平洋上。
通信を切った美月の背後で、坂上がニヤリと凶悪な笑みを浮かべていた。
「言うたのう、美月。あの永田町のタヌキ親父を、真正面から黙らせおったわ」
「……震えが止まりません。でも、これで本当に、未練はなくなりました」
美月は、小さく息を吐き出し、モニターに映る力武、リベラ、そして隣にいる蘭と坂上を見渡した。
「準備はいいですか、皆さん。……世界に、私たちの『国』の誕生を知らせる時です」
全員が、無言で深く頷く。
かつての恩師との因縁を完全に断ち切った美月は、いよいよ最後の仕上げ——全世界を巻き込んだ「圧倒的な建国宣言」のステージへと、その足を踏み出した。




