EP 14
張慶雲の毒杯と、真の王の言霊
夜が明けようとしていた。
多国籍軍の巨大な包囲網を突破した『出雲』は、波の穏やかな公海上を静かに航行していた。
水平線の彼方から、白み始めた太陽の光が飛行甲板を照らす。
だが、CIC(戦闘指揮所)の空気は、いまだピンと張り詰めたままだった。物理的な危機は去ったが、「国家という後ろ盾を持たない軍隊」という彼らの異常な立場の根本は、何一つ解決していないからだ。
徹夜でシステムを保守していた早乙女蘭は、キーボードに突っ伏してスースーと寝息を立てていた。その横のモニターには、東京にいる力武義正と桜田リベラの顔が、暗号化回線を通じて映し出されている。
『お疲れさん。とりあえず、一息つけるな』
画面越しに、力武が新しい赤マルに火をつけながら言った。
『だが、ここからが本番だぜ、美月。お前らは今、戸籍を持たない「重武装のホームレス」だ。世界中が、お前らというジョーカーをどう処理するか、舌なめずりしながら見ている』
「ええ。分かっています」
美月は、力武の言葉に静かに頷いた。
その時、蘭の寝ているコンソールの端で、強固な暗号化通信の着信ランプが点滅した。
『――ピーッ。外部からの通信要求。発信元、駐日中国大使館、および駐日ロシア大使館』
「……来おったか」
腕を組んでいた坂上が、低い声で唸った。
美月が通信を許可すると、メインスクリーンが二つに分割され、二人の男の顔が映し出された。
甘い香りの「中華」を燻らせ、温和な笑みを浮かべる張慶雲。
そして、安煙草を無表情で吸う、灰色の瞳のヴィクトル・オルロフ。
極東の裏社会と政治を牛耳る、大国の怪物たちだった。
『おはようございます、坂上提督。そして、深野補佐官』
張慶雲が、流暢で美しい日本語で口を開いた。
『先ほどの見事な突破劇、感服いたしました。まさか、民間船を盾にして米国の喉元をすり抜けるとは……我が国のシステムを狂わせたサイバー攻撃といい、貴方たちの「力」は、世界でも類を見ないほどに素晴らしい』
「……朝からタヌキの世辞を聞く趣味はねえ。要件を言え、張」
坂上が、殺気を隠そうともせずに睨みつける。
『では、単刀直入に』
張の笑顔が、一瞬にして冷徹な為政者のそれに変わった。
『出雲艦隊よ。我が国、中華人民共和国の「傘下」に入りなさい』
CICのクルーたちが、一斉に息を呑んだ。
『貴方たちは日本に見捨てられ、孤立無援の海賊に堕ちた。燃料や物資の調達、法的な保護……今の貴方たちには明日の保証すらない。だが、我が国に忠誠を誓うなら、最高の待遇と、無尽蔵の資金、そして国家という「巨大な盾」を約束しましょう』
「……フン。泥の底で足掻くより、首輪をつけて生き延びろというわけか」
画面の端で、ロシアのオルロフ大使が冷たく吐き捨てた。
『だが張の言う通りだ。真実などないこの世界で、最後にモノを言うのは「国家の生存圏(力)」だけだ。個人の矜持など、巨大な歴史のうねりの前では何の意味も持たない。……生き残りたければ、大国の秩序にひざまずけ』
それは、圧倒的な力と資本を背景にした、抗いがたい「毒杯」だった。
国を失った彼らにとって、これ以上なく現実的で、合理的な生存ルート。
『……深野美月さん』
張が、画面越しに美月の目を真っ直ぐに見据えた。
『貴女は、霞が関で人々の笑顔や、温かいコミュニティの再生を語っていたそうですね。……素晴らしい理想です。我が国の庇護下に入れば、その理想を叶えるための莫大な資金を、貴女の望む地域に投資してあげてもいい』
それは、美月が最も欲していた「金と力」の提示だった。
張は、美月の理想すらも買収し、彼女を完全な傀儡(あやつり人形)にしようとしているのだ。
「……張大使。オルロフ大使」
美月は、一歩前に出た。
かつて霞が関で、若林の「冷たい現実」の前に言葉を失い、灼き尽くされた彼女はもういない。
泥を被り、仲間に死を命じる覚悟を知り、絶望の底から自分の足で這い上がってきた「王」の顔がそこにあった。
「貴方たちは、世界を『暗黒の森』だと思っている。他者を蹴落とし、欺き、個人の尊厳をすり潰してでも、国家という巨大なシステムを存続させることが至上の命題だと」
美月の澄んだ声が、CICの冷たい空気を震わせた。
「でも、個の輝きを失い、人々が日々の労働に誇りを持てず、ただ国家のために部品として消費されるだけの国……。そんなものは、どれだけ領土が広かろうと、すでに死んでいるのと同じです!」
張の微笑みが、微かに崩れた。
「『世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない』……。私はかつて、この言葉の意味を履き違えていました。全員を救おうとする甘さが、結果的に皆を死地に追いやった」
美月は、自分の両手を見つめ、そして強く握りしめた。
「だからこそ、私たちはもう、誰かの用意した『冷たい秩序』には組み込まれない。私たちは、自分たちの手で泥をすり、血を流し、この海の上で、誰もが笑って酒を飲める『新しい場所』を創る」
美月は顔を上げ、二人の怪物に向かって、はっきりと、冷酷なまでの拒絶を叩きつけた。
「貴方たちの毒杯は、受け取らない。……出雲は、誰の犬にもなりません」
画面の向こうで、張慶雲が静かに目を閉じた。
そして、深く息を吐き出すと、これまで見せていた温和な外交官の仮面を完全に捨て去り、氷のような声で言った。
『……愚かな。大国の秩序に刃向かう個の存在など、歴史の歯車にすり潰されるだけだ。貴女は、全員を破滅に導く気か』
「その言葉は、そっくりそのままお返しします」
画面の端から、リベラが優雅に扇子を広げて口を挟んだ。
『彼女の後ろには、法と、資本と、知性、そして最強の暴力がついておりますの。歴史の歯車を壊すのは、こちらのほうかもしれませんわよ?』
『……小娘どもが』
オルロフが忌々しそうに葉巻を押し潰し、通信を強制的に切断した。
張もまた、無言のまま画面から消えた。
メインスクリーンが元のレーダー画面に戻る。
「……よく言った、美月」
坂上が、満足そうに低く笑った。
「これでもう、後戻りはできんぞ。中国とロシア、そして米国。世界中の大国を完全に敵に回し、真正面から喧嘩を売ったんじゃからな」
「後悔はしていません。……私たちの『国』を創るための、最初の試練です」
美月は、モニターに映る朝日を見つめたまま答えた。
「あとは……」
美月の目に、複雑な光が宿る。
残るは、自分たちを騙し、利用し、見捨てた張本人。
かつての恩師であり、彼女に「冷たい現実」を教え込んだ永田町の最大の怪物、若林幸隆との決着だった。
『――先生(若林)は、きっとこの状況を楽しんでるわよ、美月』
リベラが、画面越しに紅茶をすすりながら言った。
『ええ。分かっています』
美月は通信機のマイクを手に取った。
太陽(若林)に灼かれたかぐや姫が、今度は血塗られた月として、太陽の論理を喰い破る時が来た。




