EP 12
神の数式と、最も美しい「バグ」
『出雲』は、暗黒の海を切り裂きながら前進していた。
雪之丞の神がかり的な機動によって多国籍軍の包囲網に物理的な「穴」は空いた。だが、見えない電子の網はいまだ艦隊にまとわりつき、ロシアの妨害電波は依然として『出雲』の火器管制システムの完全復旧を阻んでいた。
CIC(戦闘指揮所)の中央。
早乙女蘭は、モニターの青白い光を浴びながら、信じられない速度でキーボードを叩き続けていた。
彼女の足元には、噛み砕かれたキャンディの棒と、角砂糖の空き箱が散乱している。脳のカロリー消費が限界を超え、彼女の瞳は血走っていたが、その奥には常軌を逸した「歓喜」が宿っていた。
「……なるほど。ロシアのおじさんたちの泥、やっと構造が理解できた」
蘭は独り言のように呟きながら、新しい角砂糖を口に放り込んだ。
彼女は先ほど、論理の通じないロシアの「悪意と矛盾のデータ攻撃」の前に、一度は完全に敗北した。
世界は美しい数式でできていると信じていた彼女にとって、それは自身のアイデンティティを根底から破壊されるほどの恐怖だった。
だが、彼女は見た。
完璧な正しさを捨てて、泥まみれの罪を背負う覚悟を決めた美月を。
死ぬとわかっていながら、笑って囮になった護衛艦の乗組員たちを。
常識的な計算をすべて無視して、空の絶対的優位を覆した雪之丞を。
「人間って、本当に不合理。感情で動いて、自己犠牲なんていう計算尺に合わない行動をとる。……システムから見れば、最悪の『バグ』だよ」
蘭の指が、キーボードの上で狂喜のダンスを踊る。
「でも、そのバグが……狂おしいほど美しいってことに、私は気づいちゃった」
既存のシステムを改修するのではない。全く新しい概念(0から1)の創造。
蘭が今組んでいるのは、美月たちの「不合理な行動データ」をアルゴリズム化し、自己増殖機能を持たせた前代未聞のコンピューター・ウイルスだった。
名付けるなら、『狂人たちのワンダーランド(バグ)』。
「綺麗な水で泥を洗おうとしたから負けた。なら、こっちも『泥』を……最高に純度の高い狂気の泥を、おじさんたちの口の中に直接流し込んであげる」
蘭はエンターキー(引き金)を、思い切り叩きターンッ!と鳴らした。
東京・六本木。
ロシア大使館の地下にある、極東サイバー戦司令室。
ヴィクトル・オルロフは、無表情のまま葉巻を燻らせていた。
『出雲』が物理的な包囲を抜けようとも、彼らの目を潰し続けている限り、いずれ沈む。そう確信していた。
だが、司令室の空気が一変した。
「た、大使! 出雲からの逆ハッキングです! こちらのファイアウォールが……第一、第二、第三……すべて突破されました!!」
オペレーターの悲鳴が響く。
「馬鹿な。我が国の欺瞞プログラムは、論理的なハッキングをすべて自己矛盾に追い込む構造だぞ。力押しで破れるはずがない」
「それが、違うんです! 侵入してきたデータは、論理の体を成していません! これは……!」
オルロフの目の前で、巨大なメインスクリーンが次々と明滅し、バグったように無数の文字列が滝のように流れ落ちていく。
それは、重力を無視して空中で停止する戦闘機の機動データであり、勝算ゼロの確率の中で見せた自己犠牲の判断フローであり、損得を完全に度外視した資本(裏経済)の移動データだった。
絶対的な恐怖(冷酷なシステム)で相手を支配しようとしたロシアのネットワークが、出雲のクルーたちが放つ「不屈の魂」の前に、演算不能に陥り、システム全体が悲鳴を上げて崩壊していく。
「各艦の火器管制システム、完全にロックされました! こちらのレーダーには現在……味方の艦がすべて『敵』として認識されています!」
自らの「嘘」に、自らが溺れる。
オルロフは葉巻を灰皿に叩きつけ、初めてその灰色の瞳に明確な「焦燥」を浮かべた。
同じ頃、中国大使の張慶雲も、自国の艦隊が完全に機能不全に陥った報告を受け、温和な笑顔を完全に引きつらせていた。
「……なんという非常識なサイバー攻撃だ。システムを乗っ取るのではなく、システムそのものを『発狂』させただと……? あの艦には、化け物が乗っているのか」
『出雲』のCIC。
「……チェックメイトだよ、おじさんたち」
蘭が、椅子の背もたれに深く寄りかかり、ふうっと長い息を吐いた。
彼女の目の前のモニターには、ロシアと中国の巨大な軍事ネットワークが完全に沈黙したことを示す表示が光っていた。
妨害電波は完全に消え去り、『出雲』のレーダーは夜の海を恐ろしいほどクリアに映し出している。
「蘭」
美月が、蘭の肩にそっと手を置いた。
「すごいわ。あなたが、見えない鎖をすべて断ち切ってくれた」
「ふふん。私を誰だと思ってるの? ……でも、今回は美月たち『バグ』のおかげ。ちょっとだけ、感謝してる」
蘭は照れ隠しのように、キャンディの棒をくるくると回した。
だが、歓喜に沸くCICの中で、坂上真一だけは険しい顔を崩していなかった。
「……喜ぶのはまだ早いぞ。タヌキども(中・露)のシステムは沈黙したが、この海域にはまだ、最も厄介な『狂犬』が残っとる」
坂上の視線の先、レーダーの端に映る巨大な光点。
それは、電子戦などという小賢しい手を使わず、最初から純粋な「暴力」としてそこに君臨する、アメリカ海軍第7艦隊の空母打撃群だった。
『――ハッハッハッハ! 傑作だ! 機械の目が使い物にならなくなったか!』
国際緊急チャンネルから、豪快な笑い声が飛び込んできた。
米軍第7艦隊総司令官、ジャック・フォークナー大将。
『ロシアの陰湿な泥遊びを、正面からひっくり返すとはな。……シンイチ! 貴様の飼っているガキどもは、最高の狼だな!』
「ジャック……。テキサスの田舎者が、日本の海で随分と偉そうに吠えとるのう」
坂上が、マイクを握りしめてドギツい広島弁で返す。二人は、建前上は同盟国の将官だが、裏では幾度も合同演習で鎬を削り合った戦友だった。
『ワシントンのスーツどもは、貴様らをテロリストだと喚いている。中国のタヌキどもは機能停止だ。……なら、ここから先は俺たちだけの時間だ』
通信の向こうで、フォークナーが葉巻の先端を噛みちぎる音が聞こえた。
『ネットワークが死んだなら、アナログで殺し合うまでだ! コンピューターを切れ! 双眼鏡を持て! ボイラーに火を焚べろ! 我々はこれより、最高の獲物を狩る!』
圧倒的な闘争本能。
小細工を一切捨てた、世界最強のシーパワーによる物理的な激突。
「……上等じゃあ。首を洗って待っとれ、カウボーイ」
坂上は通信を切ると、艦長席のパネルを力強く叩いた。
「両舷前進、最大戦速!! 面舵二〇、米艦隊へ艦首を向けい!!」
逃げるのではない。
最強の敵の喉首を噛みちぎるために、狂犬が海を蹴る。
美月は、揺れる艦内でしっかりと両足を踏ん張り、前を見据えた。
法と経済、そして知性の戦いは終わった。ここから先は、純粋な命と命の奪い合い——海自の猛将同士の、誇りを懸けた死闘が幕を開ける。




