EP 11
空のろくでなし、月夜に舞う
潮風が吹き荒れる『出雲』の飛行甲板。
漆黒の闇夜を切り裂くように、F-35Bステルス戦闘機のF135エンジンが鼓膜を震わせる咆哮を上げた。
コックピットの中で、平上雪之丞はヘルメットのバイザーを下ろし、小さくあくびをした。
「あーあ……。せっかくの休みなのに、無給で残業確定かよ」
口ではそうぼやきながらも、彼の操縦桿を握る手には、いつになく力がこもっていた。
彼のヘルメットの通信回線には、先ほどまで絶望に沈んでいた艦内の空気が、完全にひっくり返った熱狂が伝わってきている。
国家に見捨てられ、死を待つだけだった掃き溜めのクルーたちが、今やたった一人の「泥を被った王(美月)」のために、ギラギラとした目を血走らせて持ち場についていた。
「……ま、悪くないね。借金の取り立ても来ない独立国家で、美味い酒が飲めるんなら、少しは本気で働いてやるか」
雪之丞は推力偏向ノズルを下方に向けた。
強烈なジェット噴射が甲板を叩き、F-35Bは滑走することなく、フワリと垂直に夜空へと舞い上がる。そのまま空中でノズルを後方へ切り替え、爆発的な加速で雲の壁をぶち抜いた。
『――雪之丞。敵の展開状況をデータリンクした。見えるか』
CIC(戦闘指揮所)から、蘭の抑揚のない声が届く。
「サンキュー、蘭ちゃん。……うわ、画面真っ赤じゃん。お迎えが多すぎてモテる男は辛いわ」
雲海を抜けた雪之丞の視界に飛び込んできたのは、月明かりに照らされた無数の機影だった。
米海軍第7艦隊所属のF/A-18Eスーパーホーネット編隊、そして後方にはステルス機F-35Cの姿もある。さらに別の方角からは、ロシアのSu-57が虎視眈々とこちらを狙っていた。
『警告する。所属不明機。直ちに引き返せ。さもなくば実力行使に出る』
国際VHFチャンネルから、米軍パイロットの威圧的な英語が響く。
だが、彼らは「撃てない」。
桜田リベラの法的な脅迫により、現在『出雲』およびその艦載機は、民間企業の財産というグレーな盾に守られている。先に引き金を引けば、彼らは国際法廷で裁かれるのだ。
だからこそ、米軍は「物理的な圧力」で雪之丞を叩き落とそうとしていた。
四機のスーパーホーネットが、雪之丞のF-35Bを前後左右から完全に箱詰めにするように極限まで接近してくる。少しでも操縦ミスをすれば空中衝突となる、死のチキンレース。
『……どうする、雪之丞。回避ルートはないよ』
蘭が早口で告げる。
「蘭ちゃん。俺がなんで、いつも及第点ギリギリで手抜き仕事してるか知ってる?」
雪之丞は、四方を囲まれながらも、ヘラヘラと笑っていた。
「100点満点の力を出すと、重いんだよ。期待とか、責任とか、そういう面倒くさいものが肩に乗っかってくる。……俺はただ、重力から解放されて、空を散歩したいだけなのにな」
スーパーホーネットがさらに距離を詰める。翼の端が接触するまで数メートル。米軍パイロットがヘルメット越しに「下りろ」とハンドサインを送ってくるのが見えた。
「でもさ。……あの堅物のお姫様が、全部の『重さ(罪)』を一人で背負ってくれたんだ。なら、俺は俺の仕事(100点)をさせてもらうぜ」
次の瞬間。
雪之丞のF-35Bが、物理法則を無視した常軌を逸する機動を見せた。
「VSTOL(垂直離着陸)モード、起動」
マッハに近い速度で飛翔していた機体が、空中で突如として急ブレーキをかけた。
推力偏向ノズルが真下を向き、凄まじいG(重力)が雪之丞の肉体を座席に叩きつける。
機体は空中に「停止」し、まるでエレベーターのようにフワリと垂直に上昇した。
「なっ……!?」
米軍のパイロットたちが驚愕の声を上げる。
固定翼機が、空中で突然止まるなどあり得ない。雪之丞を囲んでいた四機のスーパーホーネットは、突然消えた目標に対処できず、同士討ちを避けるためにパニックに陥りながら四方へ散開した。
「ほーら、陣形が崩れた。空の散歩の始まりだ」
雪之丞は再びノズルを後方に向け、散開した米軍機の一機の「真後ろ」にピタリと張り付いた。
戦闘機乗りにとって、背後を取られることは「死」を意味する。
『ロックオンしました』
機体のAIが、無機質に告げる。
「バーン。……撃たないけどね。民間人だから」
雪之丞は火器管制レーダーを照射し、「いつでもお前を落とせる」という死の恐怖だけを米軍パイロットの脳裏に焼き付けた。
パニックになった米軍機が急旋回で逃げるが、雪之丞は滑るような機動で次々と敵の背後を取り、ロックオンの警報音だけを敵のコックピットに鳴らし続けた。
空中で止まり、落ち、這い上がり、また止まる。
それは戦闘というよりも、圧倒的な技量で大人を翻弄する子供の遊戯だった。
『――Crazy(狂ってる)! あいつ、重力を無視してやがる!』
米軍の無線が、恐怖と混乱で埋め尽くされていく。
『出雲』のCIC。
メインスクリーンに映し出された雪之丞の変態的な機動データを見て、蘭が目を丸くしていた。
「あり得ない……。あんな動きを連続でやったら、普通はブラックアウト(気絶)するか、機体のフレームが歪んで空中分解する。……あの男、Gの逃がし方と機体の限界値を、感覚だけで完璧に計算してる」
「あれが、平上雪之丞じゃ。……借金まみれのろくでなしだが、空の上じゃあ世界一の天才じゃ」
坂上が、腕を組みながら凶悪な笑みを深めた。
「……提督。ロシアのSu-57が動きました」
モニターを監視していた美月が、鋭い声を上げた。
「法を気にしない連中が、しびれを切らしたか」
米軍が手を出せないのを見たオルロフ大使の指示だろう。国籍マークを消したロシアのステルス機が、雪之丞に向けて二発の空対空ミサイルを発射した。
『雪之丞! ミサイル接近! 回避して!』
蘭が叫ぶ。
「おっと。ロシアのおじさんたちは短気だねえ」
雪之丞の眼下に、白煙を引いて迫る二発のミサイル。
彼は焦るどころか、楽しそうに唇を舐めた。
「蘭ちゃん。お姫様に伝えといて。今日の残業代は、ボーナス弾んでくれってな!」
雪之丞は機体を急降下させ、海面スレスレを滑空し始めた。
追尾してくる二発のミサイル。
彼は、眼前にそびえ立つ「巨大な壁」へ向かって、真っ直ぐに突っ込んでいく。
それは、彼らを包囲していた多国籍軍の巨大なイージス艦だった。
『バカ! 激突する!』
イージス艦の艦橋が目の前に迫る。数メートル手前。
雪之丞は操縦桿を限界まで引き、機体を垂直に持ち上げた。
F-35Bの腹が、イージス艦のアンテナを掠める。
ミサイルは、雪之丞の急激な軌道変更についてこられなかった。
二発のロシア製ミサイルは、目標を見失い、そのまま米軍のイージス艦の近海に凄まじい水柱を上げて着弾した。
「……Oops。ごめんあそばせ」
他国のミサイルが自国の艦の至近で爆発したことにより、米軍とロシア軍の間に致命的な緊張が走った。
「ロシアが我々を攻撃したぞ!」「誤射だ!」と、多国籍軍の通信回線が完全にパンクする。包囲網の足並みは、一人の天才パイロットの神がかり的な「散歩」によって、完全に崩壊した。
『――全艦、これより包囲網の綻びを突破する』
混乱の極みにある海域に、美月の冷たく、威厳に満ちた声が響いた。
それはもはや、一介の官僚の声ではない。怪物たちを束ねる、真の王の号令だった。
『出雲、両舷前進強速。……私たちの夜明けへ、針路を取れ』
「「「アイアイ、マム!!」」」
CICのクルーたちが、腹の底から湧き上がるような咆哮で応えた。
『出雲』の巨大なスクリューが海水を蹴り立て、重厚な鋼鉄の船体が、多国籍軍の隙間を縫うように力強く進み始める。
上空では、雪之丞のF-35Bが、雲の切れ間から顔を出した美しい月を背にして、勝利のロール(横転)を描いていた。
国に捨てられた掃き溜めの艦隊が、世界にその牙の鋭さを見せつけた夜だった。




