お父上正義氏の眼差し以て
それをひねくれ根性で勘繰って、世の意向に沿うもの、などとした私の指摘は彼女にとってどれほどくやしいものだったろうか。こう考えていただきたい。小説「うもれ木」に於ける兄入江籟三を彼女の内の本地、すなわち銭金や権力になびかぬ、謂わば真善美こそとする境涯にそのまま置きかえてもらいたいのだ。すればいまの一葉の立場は自明であろう。確かに彼女はいま兄入江頼三のために妾になるのだった。自分のためではない。しかし斯く云う私が見取った彼女に於ける理を世間はそうとは見まい。いや見れまい。単にやはり「自分のため」か、あるいは「生活に負けて」妾になるのだとぐらいにしか見ないだろう。しかしいずれにせよ、それへのくやしさと、またどうしても自分で自分をあざむくような、単に自らに詭弁を弄しているだけとも見てしまう、そのくやしさもあいまって、彼女はいま斯くも堪えがたいのだった。そのうっ屈のからくりが、他ならぬそのいとしいお蝶を前にすれば、私には実によくわかるということだ…。
と、このとき目には見えないが我々二人のかたわらで何の為にか、いや誰の為にだろうか、人が泣いているような、何某か波動のようなものが伝わって来た。何とはなく私は、もし今この彼女の姿を彼女の父上、今は亡き樋口正義氏が見るならば、いったいどう思われるだろうかとふと思ったのだった。愛する妻を、また愛娘二人を、彼は心ならずも事業の失敗ゆえの貧窮の中に残して行かなければならなかった。はたしてそれはどれほど無念だったろうか。そして生計の煩わしさなど考えさせもしなかった、箱入り娘として人一倍可愛がっていた娘夏子(一葉の本名)の、今の生き行く苦労を見るならば、こちらもまた万端遣るかたあるまいと思われた。そのように想像するうちに突然胸がいっぱいになり、はからずも私の目に涙がにじみ出た。するとそれに呼応するかのように私を睨視していた一葉の目付きが変わり、そこにも切なげな、しかし愛しげでもある涙が浮かびあがる。一歩、二歩と私の方へ歩みかけたが逡巡して止まった。しかし『いいんだ。みんなわかっているよ。すべて許している』とでも云うような想念が私のうちに湧き起こって来、一葉に向かって私は鷹揚にうなずいていた。その途端「お父っあん!」と一言叫んで彼女は私の胸に飛び込んで来、そのまま堰を切ったように泣き出した。その背に手をまわして私は彼女を慰めるのだが「すまない、すまない」と侘び続ける声を、どこか胸の内で聞きながらのことであった…。




