突入、紅月区域
陽向たちを乗せた装甲車が紅月区域へと向かう。
都内の信号は操作され、進路は順次、青へと切り替わっていく。
「紅月区域に入るぞ」
凛道の声がインカム越しに車内に響くと同時に、周囲の色が突然、薄暗い紅色に変わった。
装甲車の小窓から陽向が外の様子を窺う。
「これが紅月区域……」
幾重にも張られた封印規制線と、その周囲には黒子隊の隊員たちが慌ただしく動いていた。
空は夕暮れではなかった。
雲の奥から赤い光が滲む、もっと古く、もっと冷たい赤。
ビルの窓は黒く沈み、道路の白線だけが妙に浮いて見える。
音の距離感は曖昧になり、装甲車のエンジン音でさえ、分厚い布の向こうから聞こえるようにくぐもっていた。
人で溢れているはずの東京が、紅月区域の中では不気味な静けさに沈んでいた。
陽向は、無意識に息を止めて車窓を流れる景色に見入っていた。
自動販売機の明かりは、仏壇の蝋燭みたいに揺れ、ガードレールには、濡れた手形が無数についている。
コンビニのガラスには店内ではなく、古い墓地が映り、道路標識の文字が、まるで戒名のような書体に変わっていた。
ここはもう、東京ではない。東京の形をした、別のものだ。
陽向は、そう直感した。
ほどなくして到着した旧桜町線の入口は、雑居ビルの狭間に隠れていた。
表向きには、使われなくなった保守用通路。
鉄の扉には古い警告表示が貼られていた。
『関係者以外立入禁止』
陽向はそれを見て、思わず声を漏らした。
「雰囲気、ありすぎませんか」
「あるなぁ」
迅がダガーを軽く回す。
「こういうとこは、大体出るで」
「出るって言わないでください」
陽向の背が恐怖で少し丸くなった。
朱音が扉の前に立つ。
「凛道さん、奥はどうなってはる?」
凛道が静かに目を閉じる。その背後で、八尺様の影が伸びた。
「低級怪異が巣喰った通路の先、地下ホームに人影、二。」
「生存者ですか?」
朱音の言葉に淡々と答える。
「瘴気が濃い。ここからだと、分からないが、恐らくそうだ」
「行って確かめるしかあらしまへんな。第一部隊、突入しますえ」
「よっしゃ行くで!」
迅が扉を押し開いた。
陽向は、自分の手が微かに震えていることに気づくと、恐怖を握りつぶすように、拳を強く握った。
「助ける。大丈夫、絶対助けられる!」
そう叫ぶと、陽向は両手で、ぱちんと自分の頬を叩いた。
その様子を横目に、烈火が拳を鳴らした。
「いいぞ、天野!突入は気合だ」
紫苑が、陽向の横をすっと通り過ぎる。
「……朧、先行します。天野さん、足元に気をつけて」
「はい!」
「もう影がこちらを見ているから、油断しないでね」
「ひっ! か、影!?」
陽向は思わず足元を見た。
自分の影が、少しだけ遅れて動いた気がした。
イザナが隣で笑う。
「ヒナ。ここ、もう半分こっち側だよ。気ぃ抜くなよ~」
「こ、こっち側って!?」
その言葉と同時に、闇の向こうから音がした。
ノイズが、ざざ、と鳴る。
『まもなく、黄泉行きが参ります』
陽向の手に汗が滲む。
『白線の内側まで、お下がりください』
暗い地下の底から、電車の走る音が遠く聞こえてきた。
『なお――』
ノイズ混じりの声が、ゆっくり続いた。
『お戻りのお客様は、いらっしゃいません』
朱音が刀を抜いた。
凛道が銃を構える。
迅がダガーを逆手に握る。
烈火が前に出る。
紫苑の姿が影へ沈む。
陽向は警棒を握った。
手は震えている。
しかし、足は止めなかった。
「怪異戦線、新人隊員……」
小さく息を吸う。
「天野陽向、行きますッ!」
その隣、イザナが黒い爪を弾いて鳴らした。
「んじゃ、初任務、ちゃっちゃと行きますか」
その声は開かれた扉の奥へと吸い込まれていった。
◇
鉄扉の向こうは、冷えていた。
ただの地下通路ではなく、もっと深い場所から染み出すような冷気。
陽向は対怪異用伸縮警棒を握りしめた。
手のひらの汗すら、すぐに冷えていく。
「新人ちゃん」
前を歩く迅が、振り返らずに言った。
「足、止めたらあかんで。次の一歩、出ぇへんようになるからな」
陽向は、慌てて足元を見た。
気づけば、ほんの少しだけ歩幅が狭くなっていた。
「は、はい」
「怖かったら、怖い言うてええ」
「怖いです!」
「早ッ」
陽向は警棒を握り直し、迅の背中を追う。
「今、すごく怖いです」
「ま、正直でよろしい」
迅は笑った。
その笑い声は軽い。けれど、歩き方には隙がなかった。
二本のダガーは、すでに抜かれ、薄い風が刃のまわりを回っていた。
先頭は鞍馬朱音。
細身の日本刀を片手に、暗闇を滑るように進む。
その後ろに迅と烈火、さらに陽向とイザナ。
最後方では凛道が銃を構え、紫苑の姿はいつの間にか消えていた。
「イザナ」
陽向は、小声で呼んだ。
「なに、ヒナ」
隣を歩くイザナは、いつも通りだった。
黒い制御術式環を首につけたまま、両手を頭の後ろで組み、面倒くさそうに歩いている。
まるで、深夜のコンビニにでも行くみたいな足取りだ。
「怖くないの?」
「怪異に言う? それ」
イザナはけらけら笑った。
けれどすぐ、通路の奥を見る。
「怖くないけど、終電さんごときが引っ張ってくる線路にしちゃ、匂いが強すぎるのが気になるんだよなぁ」
陽向は足元を見た。
足元は、ひび割れたコンクリートと剥がれた黄色い誘導線。
普通の地下通路に見える。
けれど、奥から微かに音がする。
がたん。
ごとん。
電車の音は少しずつ近寄ってきている。
「……やっぱ聞こえる! 廃線なのに電車の音がする!」
「そだね」
イザナはさらっと言った。
「走ってないはずのものが走ってる時点で、だいたい黄泉案件」
「黄泉案件……」
その時、通路の照明が明滅した。
ぱちん。
ぱちん。
古い蛍光灯が、一つずつ消えていく。
前方から、何かが這う音が聞こえた。
ずるり。
陽向は警棒を構える。
「何かいる!」
陽向は咄嗟に大きな声を上げた。
その声とほぼ同時に、朱音は足を止めた。
「天野さん、分かりますか」
「は、はい。た、たぶん、前です!」
陽向は目を見開いて、闇の向こうを見つめた。
「怪異を察知する能力は、ちゃんと一人前どすな」
朱音の刀身に、薄い紫の火が宿る。
「迅、いけますか?」
「はいよ」
迅が前に出た。
暗闇の中から、黒いものが走ってくる。
――影。
床を這う、人の影。
けれど、そこに人間はいない。
影だけが、四つん這いの獣みたいにこちらへ向かってくる。
「『影走り』。雑魚やな」
迅が軽く言う。
「新人ちゃん、ええもん見せたるわ」
迅は軽く足首を回すと、小さく呟いた。
「三連旋風」
その声を残して、迅の姿が消えた。
風が通る。
陽向の頬を、冷たい空気が撫でる。
一拍遅れて、断末魔とともに、黒い影が三つに裂けた。
切断された影が、床の上でびくびくと震える。
迅はもう、元の場所に戻っていた。
「速いっ!」
「まあな。鎌鼬やし」
迅がダガーをくるりと回す。
「一匹目は転ばせる。二匹目は斬る。三匹目は傷を塞ぐ。昔の人は、よう言うたもんや」
「三連撃!?ぜ、全然見えなかった!」
陽向が目を丸くする。
「そらそうや、見えたら新人卒業やで」
「でも。最後、傷を塞いでくれるんですか?」
「表面だけな。内部は切れとる。切れたことすら気付かせない、エグいやつや」
迅が自分の肩口を指差すと、そこに三匹のイタチが顔を出していた。
「か、かわいい……」
陽向の目が釘付けになった。
「やることは全然可愛くないけどな」
そのイタチたちの前脚には鈍い光を放つ鎌が備わっていた。
裂けた影が、じわじわと再び集まり始める。
黒い染みが、床に広がる。
その中から、白い目が、ぎょろりと、いくつも開いた。
「――ッ!? 再生してます!」
「せやから、核を潰す」
迅が踏み出そうとした瞬間、別の影が飛び出した。
陽向の足元。
「――ッ!」
影が、陽向の影に噛みついた。
足が重くなる。膝が曲がらない。
まるで、地面に縫いつけられたみたいだった。
「ヒナ」
イザナの声が低くなる。
黒い爪が、すっと伸びる。
「ちょっと待って! イザナ!」
陽向は叫んだ。
イザナの力を使えば、きっと簡単に裂ける。
でも、その瞬間、自分の魂の端が削れる。
瞬時に陽向は腰の札を引き抜いた。
紫苑が渡してくれた、簡易封印札。
「迷ったら、怖いものに貼る!」
陽向は、足元の影に、力任せに札を叩きつけた。
ぱん、と乾いた音がした。
朱色の文字が影を塗りつぶすように光る。
影走りが、声にならない声を上げて縮こまった。
足が動く。
「よしッ!動いた!」
「……天野さん、上出来」
耳元で声がするのと同時に、光るものが視界の隅で動いた。
「ひゃっ!」
振り向くと、紫苑がいた。
いつからいたのか、本当に分からない。
紫苑の短刀が、影走りの核を正確に刺し、その刃が鈍く輝いていた。
黒い影が、煙のようにほどけていく。
「紫苑先輩、いました!?」
陽向は、思わず一歩あとずさった。
「戻ってきた」
「毎回びっくりします!」
紫苑は、短刀を軽く振って、刃についた黒い煙を払った。
「慣れて」
紫苑は、少しだけ目を細めた。
「今の判断は、よかったよ」
「本当ですか」
陽向は、胸に手を当てた。
まだ鼓動が速い。
「イザナは極力使わない方がいい。少なくとも天野さんの魂がイザナに慣れるまではね」
紫苑の言葉に、陽向は小さくうなずいた。
陽向はさっきより少しだけ、呼吸が自分のものに戻った気がした。




