魂サブスク
『契約成立』
その機械音声が響いた瞬間、部屋中の警報が鳴り出した。
赤いランプが回り、床の術式が紅く明滅する。
壁一面に貼られていた封印札が、ばさばさと震えた。
観測室の向こうで、誰かが叫ぶ。
「魂圧、上限突破!なお上昇中!」
「汚染値、基準値を超過!」
「零号区画の封印術式、第三層まで緩んでいます!」
「緊急遮断の判断をお願いします!!」
イザナは、にへら、と笑った。
「お? 契約成立じゃん。まじウケる」
(……全然ウケないって)
陽向は、自分の胸を押さえた。
心臓が、どくん、どくんと大きく鳴っている。
それと同時に、自分のものではない鼓動が胸の奥で重なっている気がした。
冷たい。熱い。
なのに、どこか懐かしい。
怖い。
何だこれ。本当に何だこれ。
「ヒナぁ」
イザナが、手をひらひら振る。
「今日からウチの人間ね」
冗談めいた声だった。
その瞬間、陽向の胸の奥をまるで冷たい指が撫でるような感覚があった。
「私はペットじゃないですよ!」
叫んだ瞬間、足から力が抜けた。
「あ、あれ?」
視界がぐらりと傾く。まるで貧血を起こしたような感覚に陽向は襲われた。
視界が狭まり、意識が遠のく。
倒れる、と思った瞬間、誰かに脇を支えられた。
「おっと。新人ちゃん、いきなり魂、持ってかれかけとるで」
大阪弁の軽い声。難波迅だった。
二本のダガーを腰に戻し、片手で陽向を支えていた。
「だ、大丈夫です! すみません!」
「大丈夫な顔色ちゃうけどな」
「か、顔色はくらい、根性で戻します!」
「戻らん戻らん。顔色は根性で戻らん。それにヘロヘロやんか」
陽向に笑顔を向けていたが、その目は笑っていなかった。
その視線は陽向ではなく、常に、その向こうのイザナに向いていた。
次の瞬間、すらり、と刀を抜く音がした。
朱音が抜刀し、剣先をイザナに向けた。
「第零号。天野さんの魂から少し離れなはれ」
イザナに向けられた柔らかい笑みの奥に、まるで氷のような冷たさが宿っている。
朱音の足元に、薄い水紋が広がった。
白い封印室の床に、水などない。
それなのに、濡れた橋板を踏むような、ぎしり、という音がした。
朱音の傍らに、女の影がすう、と立つ。
濡れた黒髪。
俯いた顔。
細い指先。
その袖口から、怨念のような火が零れ落ちる。
――橋姫。
新人教育で見た資料の名が、陽向の頭をよぎった。
人の情念と嫉妬を橋に縛る怪異。
鞍馬朱音の契約怪異。
朱音が刀を握り込むと、薄紫の炎が両腕を伝って刀身を包んだ。
ゆらゆらと燃える半透明の紫炎は、熱よりも先に胸の奥を冷やすような禍々しい輝きを放っていた。
「契約成立直後の魂侵食。しかも測定不能。これ以上進めるつもりなら、うちが斬りますえ」
「わー。京都弁こわァ。言葉は柔らかいのに中身が刃物すぎー」
イザナは自分の両肩を抱きしめて、怯えるふりをする。
「刃物を持った上で、言うてますし」
「あ、たーしかに」
「なんの納得ですか、イザナ!」
陽向がツッコむと、イザナはけらけら笑った。
「ヒナ、ツッコミうま。魂の味も変だし、けっこう当たりキャラじゃね?」
「褒められてる気がしません!」
「褒めてる褒めてる。超レア、トリプルSってやつ?」
イザナが陽向へ一歩近づく。
その瞬間、空気が変わった。
凛道が、狙撃銃を構え直す。
音も迷いもなく、銃口がイザナの額を捉えた。
「動くな」
短い声だった。
その背後に、背の高い女の影が揺れる。
天井に届きそうなほど長い影。
異様に細い手。
白いワンピースの裾が、風もないのにゆらりと揺れている。
その手が、背後から凛道の両目を覆うように伸びた。
見えなくなるはずだった。
なのに、凛道の銃口は一ミリもぶれない。
『ぽ、ぽ、ぽ……』
どこからか、そんな声が聞こえた気がした。
陽向の背中に、ぞわりと寒気が走る。
――八尺様。
見えた場所ならば、必ず届く。
凛道の契約怪異。
イザナは、ぴたりと足を止めた。
そして、楽しそうに目を細める。
「へえ。ぽぽぽ先輩、動き早。これ、避けても当たるヤツじゃん」
「動くなと言った、第零号」
「はいはい、降参でーす」
イザナは両手を上げた。
まったく焦りも、反省もしていない顔だった。
「あいさつはその程度にしておけ、イザナ」
晴臣の静かな声が響く。
その声だけで、封印室の空気が一段下がった。
イザナの笑みが、ほんの少しだけ変わった。
さっきまでの軽さが薄れ、瞳の奥に千年分の夜のような闇が覗く。
「久しぶりじゃん、晴臣。あんた、全然遊びに来ないし」
イザナと晴臣が対峙した瞬間、天井と床に描かれた封印術式が淡く明滅した。
壁一面の札が、風もないのにかすかに震えている。
「総部長だ」
晴臣は表情を変えずに言った。
「固。晴臣でよくね? 今どき肩書きで呼ばせる系?」
「君に現代の礼儀を期待した覚えはない」
「そりゃそ。ウチ、怪異だし。知らんわ、現代礼儀」
けらけら笑うイザナを、晴臣は見据えた。
「契約は成立した。だが、君の完全解放を認めたわけではない」
「なにそれ。マジで言ってんの?」
イザナの金色の瞳がほんのわずかに細くなる。
「能力出力は第三制限まで。行動範囲は天野陽向を中心に半径五十メートル以内。単独行動は禁止。魂侵食値が基準を超えた場合、即時遮断する」
「首輪付きじゃん。だる」
「不満なら、再び零号区画に戻すだけだ」
「だるー、パワハラじゃんか」
イザナは唇を尖らせた。
「あのう……」
陽向は迅に支えられたまま、恐る恐る手を上げる。
「どうした、天野君」
晴臣は陽向に向き直った。
「私、今、もしかして、すごく大変な契約をしました?」
――沈黙。
その場にいた誰もが、陽向を見た。
久我は小さく息を吐くと、無表情でタブレットを操作していた。
「君は今、怪異戦線史上初めて、未分類怪異第零号イザナとの魂契約に成功しました。これは同時に、第零部隊と技術解析局の管理対象に移行したことを意味します」
「はい……」
「怪異能力を使えば、引き換えに魂と寿命を消費します。最悪の場合、君は人間としての自己を失う可能性もありますので、最悪の事態の予防の観点からも、今後は、魂汚染値、怪異侵食率など重要パラメーターはすべて記録・監察の対象となります」
「……え?」
陽向は固まった。
久我は淡々と続ける。
「聞こえませんでしたか?」
「あ、いや……。聞こえましたけど、聞き間違いであってほしかったです!」
「聞き間違いではないです」
「言い切られた!」
陽向の顔が、あからさまに青ざめる。
「まあ、そんなビビんなって。魂は、ちょいちょい貰うだけだし」
イザナが笑いながら、横から口を挟む。
「言い方軽すぎ! 魂をちょいちょい貰わないでください!」
陽向は、信じられないと言わんばかりの引きつった表情でイザナを見る。
「じゃあ、がっつり?」
「もっと嫌です!」
「魂サブスク的な?」
「た、たた、魂サブスク!?」
陽向の声が零号区画に響いた。
その間も、胸の奥では冷たい指先のようなものが、魂の端をつついている。
冗談みたいな言葉なのに、冗談ではないのだと、体だけが先に理解していた。
その直後、難波迅が堪えきれず吹き出した。
「魂サブスクはあかん。さすがにあかん」
「迅……。笑うところやありませんえ」
朱音が静かに鋭い目線を迅に向ける。
「すんません。でも今のはちょっと」
「ホントですよ、難波先輩。笑いごとじゃありませんって!」
陽向はふらふらの足で難波を見た。
「すまんすまん、せやな。命の前借りやもんな」
「それも軽いです!」
陽向は頭を抱えた。
まだ契約して数分しか経っていないのに、もうすでに不安で仕方がない。
寿命とか魂とか大事なものと一緒に常識までもが削れていっているような気がした。
久我はタブレットから目を離さない。
朱音の刀は、まだ鞘に戻っていない。
凛道の銃口も、わずかに下がっただけだった。
誰も、心からは安心していなかった。
そんな中で、イザナは陽向の胸の奥に残った痛みを、ひどく嬉しそうに見つめていた。




