黒槍
イザナは、手から溢れ出るどす黒い靄を陽向の背中に押し付けた。
それは陽向の胸を抜け、やがて、腕へと流れ込んでいった。
「警棒に魂を込めろ、ヒナ」
イザナが陽向の背中越しに囁く。
「ど、どうやって」
「名前を言いな。あんたが何者なのか、宣言するんだよ」
イザナは笑みを浮かべる。
宙に浮かぶ赤札が震えた。
まるでイザナの圧に臆するように。
陽向は警棒を顔の前で構える。
「公安委員会、特殊治安維持部隊……」
警棒から、黒い靄が立ち昇る。
「東京第一部隊付き、新人……」
靄は糸になる。
一本。
二本。
十本。
黒い糸が、警棒に絡みつく。
金属の表面に、鳥居の紋が浮かび上がる。
「私は――」
陽向は赤札を睨む。
「怪異戦線、天野陽向だッ!」
名乗りと同時に、警棒を振り抜いた。
その瞬間、警棒は、金属を擦り合わせるような甲高い音を発しながら軋む。
短い柄が、陽向の腕の動きに合わせて伸びる。
金属の表面に、熱が走る。
黒い糸が、螺旋を描きながら刃へと収束する。
警棒の先端が火花を爆ぜながら割れ、黒鉄の穂先が、乱暴に開く。
それは槍だった。
振り抜いたはずの警棒は、禍々しい鈍い光を放つ黒槍になっていた。
刃元には、小さな黒い鳥居の紋章。
その奥で、紅い光が脈を打つ。
陽向は、変化した槍の重みを両手で受け止めた。
「け、警棒が……」
陽向は言葉を失っていた。
槍の鳥居紋が、激しく、紅く光る。
赤札に浮かんでいた文字が乱れた。
未収。
徴収期限、即時。
その上から、黒い文字が、まるで上書きするように走る。
異議申し立て。
契約者権限。
イザナ、未承認。
「叩き込め、ヒナ!」
イザナが叫ぶ。
陽向は床を蹴った。
身体が軽い。
イザナの力が、槍を通して陽向の動きを支えている。
「天野さん、影を進んで!」
紫苑の影が床を走り、陽向の足元を支えた。
陽向は頷き、影の道を突き進む。
赤札から糸が伸びる。
「道は斬り開く!」
朱音の刀から爆ぜた紫炎の斬撃の衝撃波が糸を断ち斬る。
「バックアップは任せろ‼ 行け、陽向!」
迅の風刃が陽向を狙う裁き烏たちを斬り裂く。
「業火・重撃掌!」
烈火の炎を纏った激しい連打が、赤札の外殻をわずかに砕く。
「凛道! 外殻を撃ち砕け!」
烈火が左に頭を傾げる。
「見えた」
刹那、銃声が響く。
彼女の右耳の脇を、凛道の銃弾がすり抜ける。
割れた赤札のど真ん中を狙い撃ち、外殻のひびを広げた。
その一点へ、陽向は穂先を向ける。
「私の名前を――」
槍の穂先から黒炎が立つ。
「勝手に切符にするな!」
黒槍が赤札に突き立った瞬間、怨嗟の悲鳴が室内に響き渡った。
次の瞬間、裁き烏たちが一斉に弾け飛ぶ。
黒い羽が火の粉のように舞い、そして消滅していく。
そして、床下の線路は錆びついた金属音を発しながら、大きく揺れ始めた。
が、が、が、が、がたん。
ご、ご、ご、ご、ごとん。
音が歪む。
検査室に走っていた赤い線が、一本ずつ消えていく。
壁の電光掲示板も、黒い染みになって消えた。
最後まで残っていた裁き烏は、凛道の銃に撃ち抜かれて消える。
検査室に、一瞬の静寂が広がる。
床に走った赤い線は消え、黒い水面も消えた。
照明も元通りの明るさを取り戻していた。
しかし、モニターには緊急事態警報のアラートがいまだ点滅して表示されている。
陽向は、その場に膝をついた。
「はっ……はぁ……」
呼吸が荒い。
胸が痛い。
腕も震えている。
手の中で、槍が小さく震えた。
黒い糸がほどけ、元の警棒へ戻っていく。
自分の名前は、まだここにある。
陽向は、消えていく黒い羽を睨んだ。
「……怪異戦線、なめんなよ」
声がひどく掠れていた。
イザナが、陽向の前にしゃがんだ。
「ヒナ」
「……うん」
陽向は顔を上げてイザナを見た。
「今の、ちょっとよかった」
「ちょっとだけ?」
少し間があったが、イザナは小さく笑った。
「……ちょっとだけだよ。まだまだポンコツ」
陽向は少しだけ目を丸くした。
「今、褒めた?」
「……は?褒めてねーし」
「褒めたよね」
「気のせいだし」
イザナはそっぽを向いた。
「まだです!気を緩めるのはまだ早い!」
久我がモニターの表示を切り替える。
「まだ、敵の攻撃は続いています!」
本部の結界強度を示す数値が上下に大きく変動し、少しずつその数値を下げていた。
陽向の背筋が冷えた。
遠くで、もう一度だけ音がした。
がたん。
ごとん。
今度は、もっと深い場所から。
それは怪異戦線本部の地下から、聞こえていた。




