『黄泉行きが参ります』
目が覚めても、胸の奥に電車の音が残っていた。
どこかで、まだ車輪が回っているみたいだった。
陽向は、天井を見上げた。
自分の現在地を確かめるように、目だけであたりを見回した。
少しでも目を閉じると、真っ赤な行き先表示が見える。
『黄泉』。
そして、夢の中で見た帳簿の文字。
天野陽向。
未収。
次回徴収。
「……最悪の請求書だ」
陽向が呟くと、部屋の隅から声がした。
「おはよ、ヒナ。寝起きの第一声、だいぶ終わってるね」
イザナだった。
壁にもたれたまま、片膝を立てて座っている。
首元の制御術式環には、修復用の封印札が何重にも巻かれていた。
ちょっとふてくされた、その姿だけ見ると、夜遊びして怒られた女の子みたいだ。
ただし、怒られた相手は公安で、理由は出力制限違反である。
「イザナ、寝てないの?」
「この首輪の修復で呼び出されたし、ウチ、怪異だから、寝なくても平気」
可愛くない制御術式環が、さらに可愛くなくなったからか、イザナの機嫌はあまり良くない。
「それより、ヒナうなされてたね」
陽向は言葉を止めた。
「私、うなされてた?」
イザナは無言で小さく頷いた。
「……夢、見たよ」
「知ってる。気配は遠かったから様子見てたけど。……どんな夢だった?」
イザナは自分の爪をいじりながら、陽向の話を聞いていた。
陽向は、夢の中の黒い官吏を思い出す。
「帳簿を持った人がいた。人かどうかは分かんないけど」
「――ッ」
イザナの爪をいじる手が止まった。
表情がほんの一瞬だけ変わる。
「……帳簿?」
「うん。そこに私の名前が書いてあった」
「なんて?」
「……天野陽向。未収。次回徴収」
イザナが小さく舌打ちをした。
部屋の温度が一段下がる。
「イザナ?」
「……やっぱ泰山王か」
小さな声だった。
けれど、その名前だけで、部屋の雰囲気が変わるのが分かった。
「私、狙われてる?」
「うん」
「そこは、ちょっと濁してほしかったな」
「濁したら危ないでしょ」
イザナは立ち上がり、陽向の前まで来た。
じっと胸元を見て、また舌打ちする。
「切符痕、深くなってる」
「え?」
「寝てる間に、ちょっと沈んだ」
陽向は反射的に胸を押さえた。
「どうすればいい?」
陽向は少し俯いたまま、イザナに問う。
「まず医者。次に久我。あと、どすえ隊長」
「第一部隊にも?」
陽向は顔を上げた。
「言わないと怒るでしょ、あの人」
陽向は「そうだよね」と小さく呟いて、また少し俯いた。
その様子をイザナは見逃さなかった。
小さく息を吐いて続けた。
「あと、ヒナさぁ……」
イザナの声が低くなる。
「勝手に一人でどうにかしようとか考えんなよ」
陽向は息を止めた。
「まだ何も言ってないよ」
「怪異なめんなよ。顔みりゃ分かる」
イザナは、陽向の額を軽く弾いた。
「痛っ」
「未収ってことは、まだ回収されてない。つまり、まだ間に合う」
「……うん」
「なら、みんなで潰す」
イザナは、いつもの悪い笑みを浮かべた。
「ウチら、バディでしょ。少しは頼れよ」
その言い方が、あまりにイザナらしくて、陽向は少しだけ笑ってしまった。
その時、扉がノックされた。
「天野さん、起きてはりますか」
鞍馬朱音の声だった。
陽向が返事をすると、扉が開いた。
朱音と、その後ろには紫苑がいた。
朱音はいつものように落ち着いている。
紫苑は相変わらず影が薄い。
扉が開くまで、そこにいたことに気づけなかったくらいだ。
「第一部隊も今、玄庵先生に診てもろてます。で、天野さんを連れてくるようにと」
「了解しました。ありがとうございます」
朱音は陽向の顔を見る。
「顔色が悪い。何かありましたか?」
「……はい」
陽向は夢の事を、朱音に伝えた。
話を聞き終えた朱音は、「なるほど」と呟いた後、しばらく考え込んでいた。
「気にしすぎでしょうか……」
陽向は小さく呟いた。
「……真っ先に思いつく原因は、初出撃の精神的ストレスやと思います」
「ストレス……ですか」
「本部には強力な結界が張られてますさかい、泰山王が天野さんの夢に干渉してきたとは考えにくいどす。せやけど、あんなことがあった直後ですし、念のため医療局で、玄庵先生と久我隊長の意見も聞いてみましょう」
陽向は立ち上がろうとした。
その瞬間、胸元がずきりと痛む。
「ッ……」
体が傾く。
イザナがすぐに肩を掴んだ。
「大丈夫。ちょっと痛んだだけ」
「それ大丈夫って言わないからね」
繕った笑顔を向ける陽向に、イザナは呆れ顔で小さく息を吐いた。
◇
「泰山王の干渉疑い……」
久我の指が、ほんのわずかに止まった。
魂医療局の検査室に沈黙が落ちる。
香炉から沸き立つ煙が、一直線に天井へ伸びる。
陽向はまた検査台に座らされ、無数のコードが取り付けられていた。
「疑いじゃなく、確定だろ?」
イザナは椅子に座って、足をぶらぶらさせる。
「確定させるには情報が足りません。それに鞍馬隊長の言うことも一理ある」
「あっそ。データメガネ君は慎重ですねぇ」
久我はイザナの言葉を流したまま、検査室のモニターを操作する。
「……もちろん、その可能性が非常に高いことは理解しています」
久我が操作したモニターに、陽向とイザナを繋ぐ契約糸が映った。
黒い糸。
白い糸。
陽向から伸びる白い線の根元に、注意深く見なければ見落としてしまうほど細い、赤い線が一本、食い込んでいる。
「精密検査の結果、天野さんの魂に食い込んでいる糸があることが、新たに分かりました」
「それは……?」
陽向は食い入るようにモニターを見つめる。
「黄泉痕。ただし、もし今回のものが、泰山王由来であるなら、『命数干渉痕』と呼ばれるものになります」
久我の視線は手元に落ちたままで、眼鏡の反射に隠れて表情までは分からない。
「ただし、あくまでも可能性の話です。もし天野さんの夢にまで干渉してきたなら、それは本部の結界が破られたと同義になります。――それは断じてあり得ません」
イザナは鼻で笑った。
「人間と怪異の長い戦いは、その『断じて有り得ない』が有り得た、の連続じゃん。可能性を断じるなよ、データメガネ君」
場に沈黙が落ちた。
人間と怪異の歴史をイザナが言うと、やけに説得力があった。
「陽向君、ちょっと失礼するよ」
玄庵が陽向の胸元に術式札をかざす。
「ふむ。確かに通常の黄泉痕にしては、反発が強すぎるのう」
温かいものが染み込むのを感じる。
けれど、モニターに映る赤い線は消えることはなかった。
「応急的に薄めることはできる。じゃが、無理には消せん。魂が裂ける」
「裂ける……」
玄庵を見つめる陽向の瞳が揺れる。
「怖い言葉は覚えやすかろう」
「できれば覚えたくないです……」
陽向はそれっきり俯いて黙った。
「これさ、ウチが喰えば消える?」
イザナがモニターを覗き込む。
「やめておきなさい」
玄庵は即答した。
「黄泉に記された名と、本人の魂の名は繋がっておる。雑に喰えば、陽向くんは自分が何者か分からなくなる」
「ウチ、怪異だよ? 人間の術式と一緒にすんなよ、ほっほ仙人」
イザナはムッとした顔で玄庵を睨む。
「それも一理あるがの。イザナと陽向くんの結びつきは特殊じゃ。予測もつかんことが起きる可能性は高い。最悪、術式の反動が起きれば、君もタダでは済まない場合もあるぞ?」
玄庵は顎をさすりながら続ける。
「術者が終電さんならば容易かろう。じゃが、『泰山王』だったならば、どうじゃ」
その言葉に、イザナは顔を少し強張らせて、舌打ちをした。
「泰山王もめんどくせーけど、人間の魂を大事にするって、マジでムズイ」
――名と魂の名の繋がり。
陽向は、車内でのことを思い出す。
『自分の名前を言って』。
あれは、ただの励ましではなかった。
自分を自分に繋ぎ止めるための、命綱だったと気づいた。
「じゃあ、食べないでね、イザナ」
検査台からイザナに振り向く。
「まだ何もしてないし」
「しそうだったじゃん」
イザナは少し言い淀んだ。
「……しそうだったけど」
「ほら、やっぱり」
その時だった。
検査室の照明が一度だけ、ぐにゃりと揺れた。
久我が顔を上げる。
朱音が刀の鍔に手を掛ける。
紫苑の影が揺れた。
天井のスピーカーから、ざざ、とノイズが流れる。
『まもなく――』
陽向の背筋が凍った。
『黄泉行きが、参ります』
『白線の内側まで、お入りください』
「――終電さんッ!?」
陽向が叫ぶ。
「本部内通信に外部干渉発生! 指令室! 状況は把握しているか!」
久我が叫ぶ。
『……ザザッ。現在……ザザザッ』
「チッ……」
本部への外部干渉。
久我が、珍しく小さく舌打ちをした。
それだけで、この状況が、どれほどあってはならないことか、陽向にも伝わった。
久我は即座に端末を操作し、緊急事態警報を発令する。
本部内に警報が鳴り響き、館内のモニターに情報が表示される。
階層ごとに自動結界システムが作動し、緊急結界術式が発動する。
「ほらね。言ったじゃん。『有り得ない』こそ有り得ないんだよ」
イザナは目を細めた。
「な、なんで!? 本当に結界を突破されたの!?」
陽向が叫んだ瞬間、足元に赤い線が浮かび上がった。




