電車は走るよ、どこまでも
『東京第一部隊、現時点での任務目標を変更する』
通信機から、久我の声が響いた。
黒い線路の奥には、まだ終電さんの気配が残っている。
赤い尾灯は見えない。
けれど、遠く、耳の奥にだけ車輪の音が残っていた。
「了解。指示を」
朱音が短く応じる。
『救助者二名の搬送を最優先。終電さん本体の追跡は中止。現場データ回収後、全員撤収』
「東京第一部隊、了解しました」
朱音は即座に頷いた。
迷いのない声だった。
「隊長、追わないんですか」
陽向は思わず聞いていた。
朱音が、少しだけ厳しい目でこちらを見る。
「追いません」
「でも、あれはまだ走っています」
線路の奥を見つめながら、陽向は食い下がる。
そこにはもう何もいない。
いないからこそ怖かった。
「分かっています。せやけど、今の私らは救助者を抱えています。あなたもイザナも消耗している。ここで追えば、救えるものまで失います」
「ですが……!」
陽向は途中で言葉を飲み込んだ。
司令部の命令も、隊長の言っていることも正しい。
分かっている。
分かっているのに、黒い電車がまだどこかを走っていると思うと、足が前へ出そうになる。
帰れなかった人たちが、まだ乗っている。
次に誰かが乗せられるかもしれない。
それを思うと、胸が苦しくなった。
「いえ、なんでもないです。余計な時間取らせて、すみませんでした」
陽向は頭を下げ、その場を離れようとした。
「天野さん」
朱音の声が、少し柔らかくなる。
「助けたいと思うことは、悪いことやありません」
「……はい」
「でも、助けたいだけで飛び込めば、あなたも乗客になります」
陽向の胸が、また痛んだ。
胸元に残った黒切符の痕が、じくりと熱を持つ。
まるで、まだ黄泉行きの切符がそこに残っているみたいだった。
「はい……。覚えておきます」
陽向は小さく答えた。
「よろしい」
朱音は頷いた。
その横で、迅が軽く肩をすくめる。
「ま、初任務で黄泉行き片道切符もらって帰ってきたんや。新人としてはミラクルやで」
「……確かに戻ってこれたのはイザナのおかげと、運が良かったんですよね、きっと」
陽向はさっきまでのことを思い出していた。
黒い車内。帰りたいと呟く声。切符を切る音。そして、イザナの手。
悪い夢のような現実に実感はまだあまり無かった。
「ほんまやで。でも、生きて戻ったやつはそれだけで偉い」
そう言いながら、拡げられた迅の右手にうっすら血が滲んでいるのに、陽向は気づいた。
「迅先輩、その手……」
陽向の声に、迅は自分の手を見下ろす。
「ああ、これくらい平気や。いつものことやで」
「えぇ!? 平気じゃないですよ」
「鎌鼬使うと、痛覚ちょい鈍るんや」
さらっと言う迅に、陽向は言葉を失う。
「痛覚が?」
「せや。皮膚感覚を少し持ってかれとって、連撃の時に、自分の手ぇ斬れとるのに気づかん時があんねん。まあ、慣れや慣れ」
「慣れちゃダメなやつですよ、それ!」
「陽向は真面目やなぁ。でも、心配してくれて、ありがとな」
迅は笑っていた。けれど、陽向には到底笑えなかった。
寿命だけでも、魂だけでもない。
この人たちは、それぞれ何かを削って戦っている。
怪異戦線の隊員は、勝っても無傷ではいられない。
それを、初任務で思い知らされた。
「ヒナ」
イザナが小声で言った。
「私が早く一人前になって、みんなを助けなきゃ!とか思ってるでしょ」
陽向は、何も返せなかった。
イザナは少しだけ眉を寄せる。
「背負いこむの、やめときなよ。ヒナの魂、分かりやすすぎ」
「……魂まで読まないでよ」
「読まなくても出てるし」
イザナは軽い口調で言った。
けれど、その目は真剣だった。
「全部は無理。一人で全部やろうとしたら、また切符切られるよ」
その言葉は、胸に刺さった。
陽向は黒い線路の奥を見る。
終電さんはまだ走っている。
でも、今は追えない。
それを認めるのは、思ったより苦しかった。
「……今は、無事に本部に帰ることを優先する」
「うん」
イザナは満足そうにうなずいた。
「えらいえらい」
「子ども扱い?」
「ウチからしたら、みんな子どもみたいなもんじゃね?」
「……それ、笑っていいとこ?」
イザナは答えず、にやりと笑った。
搬送用の結界布に包まれた救助者二人を、烈火と迅が担ぐ。
布の表面には淡い文字が流れ、黄泉の気配を遮断していた。
救助者の顔色は悪い。けれど、呼吸はある。
陽向はそれを見て、ようやく少しだけ息を吐いた。
凛道は最後まで線路の奥を見ていたが、やがて銃を下ろす。
「痕跡、完全に消失した」
「では撤収します」
朱音が全員を見る。
「油断せず、来た道を戻りましょう」
全員が動き出した、その時だった。
ホームのスピーカーが、ざざ、と鳴った。
全員が止まる。
『本日の運行は、終了しました』
さっきと同じ声。
終電さんの声。
陽向の背筋が冷える。
『次回のご乗車を、お待ちしております』
ぷつん、と音が切れた。
沈黙。
朱音が、静かに言った。
「やはり、終わっていませんな」
ホームの電光掲示板が、明滅した。
赤い光がノイズのように走る。
一度消えて、また灯る。
歪んだ赤い線が、次第に文字へと形を整えていく。
次発、未定。
行き先、黄泉。
その下に、もう一行。
予約済。
天野陽向。
「……え」
陽向の視線が固まった。
電光掲示板は、すぐに消えた。
けれど、陽向は見てしまった。
自分の名前。
黄泉行きの次の乗客として、予約された名前。
胸元の切符痕が、じくりと痛む。
陽向は消えた電光掲示板を、ただ黙って見つめていた。
イザナが、陽向の前に立つ。
「キャンセルしといて」
「……誰に言ってんの、それ」
陽向の瞳は電光掲示板に釘付けになったまま、言葉だけが漏れた。
「……クソ電車のカチカチ君」
イザナは闇の奥を睨む。
「ヒナは乗らないし、ウチが乗せない」
陽向は、自分の胸を押さえた。
怖い。
怖いに決まっている。
それでも、陽向は小さく、でもはっきりと言った。
「……うん。私は何度でも帰る。絶対に」
まるで、その声に応えるように、線路の奥で、遠く小さく車輪の音が鳴った。
がたん。
ごとん。
がたん。
ごとん。
終電は、まだ走っている。




